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【東京エンタメ堂書店】

ノーベル賞受賞 カズオ・イシグロの薦め

 今年のノーベル文学賞に、日系の英国人作家カズオ・イシグロさんが決まりました。ノーベル賞というと難解な作品を想像されるかもしれませんが、彼の小説は分かりやすい文章で、奥深いテーマを掘り下げています。中でも映画やドラマになった代表的な2作を紹介します。 (樋口薫)

 最初に、イシグロ作品を読む際の注意点を一つ。それは「語り手を信用し過ぎないこと」。普通の小説なら、主人公の物語ることをいちいち疑う必要はありません。でも例えば、皆さんが過去の体験を語る時、自分に都合の良いように少し話を変えたり、言いにくいことを遠回しに伝えようとしたりはしませんか。似たようなことが、彼の小説にはしばしば起こります。

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◆「偉大な執事」の過ち

 特徴的なのが、英国最高の文学賞、ブッカー賞を受賞した<1>『日の名残(なご)り』(早川書房、821円)です。舞台は1956年の英国。名門の貴族に長く仕えた老執事スティーブンスは、休暇に英国内を車で旅しながら、お屋敷に数々の要人が訪れた戦前の日々を懐かしみます。

 彼は「偉大な執事」たるべく、常に「品格」を保って職務に就いてきました。たとえ父の最期に立ち会えなくても、愛する女性を失っても。そんな彼が過ちに気づく、いえ、既に気づいていた過ちを認める最終章は、いつ読んでも胸が詰まります。それでも「夕方が一日でいちばんいい時間なんだ」の言葉とともに、彼がとある決意を抱くラストは、読者の胸に小さな明かりをともしてくれるはずです。

 一人の執事の半生が、緩やかに衰退していく大英帝国の姿と重ね合わされる構成も見事です。人気俳優アンソニー・ホプキンスさんの主演で映画化されましたが、私のスティーブンスのイメージとは少し違いました。皆さんはいかがでしょう?

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◆運命づけられた悲劇

 続いて、日本でも蜷川幸雄さん演出の舞台や、綾瀬はるかさん主演のドラマになった代表作<2>『わたしを離さないで』(早川書房、864円)。あらすじをご存じの方も多いのではないでしょうか。

 英国の寄宿制施設「へールシャム」で奇妙な教育を受ける少年少女たちの生活を、卒園生のキャシーが回想します。彼女らを待つ「提供」とは何なのか。なぜ誰も赤ちゃんを産めず、「内部」を健康に保つ必要があるのか。

 その秘密は前半のうちに明かされます。秘密そのものは主題ではありません。それよりも痛切に浮かび上がるのは、どうにもならない悲劇を運命づけられた個人の生き方であり、立場の異なる人々との間に線を引いて無関心を装う周囲(われわれ)の態度です。

 キャシーの語りにも注意が必要です。彼女は極めて深刻な事実を、ささいなことのように語ります。抑えた語りに慣れた読者は、終盤、ある登場人物から現実を突きつけられた時、大きな衝撃を受けるはずです。決して明るい物語ではありませんが、読む者の倫理観を揺さぶる傑作です。

 主人公たちの悲恋の物語として読んでも、深い余韻が残ります。個人的には、施設を出て再会した3人が湿地に座礁した漁船を見に行くシーンの静けさが印象的です。

 そのほか、日本を舞台にした『浮世の画家』、音楽にまつわる短編集『夜想曲集』も読みやすく、お薦めです。受賞を機に、より多くの読者がイシグロ文学の世界に踏み入ってほしいと思います。

 

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