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【書く人】

不安定な生の実感描く『ビニール傘』 社会学者・岸政彦さん(49)

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 何年も前から、小説を書きませんかと、編集者に熱心に口説かれていた。社会学の枠にとどまらず、ささやかな暮らしの営みに目を向けたエッセーも人気の書き手だが、小説は「書けるわけない」と断り続けた。「世界の名作を読んだりして、文学とは何かを知ってからでなきゃダメだろうと思い込んでいたんです」。でもエッセーに架空の要素を入れるようなやり方なら、借りものでない自分なりの小説ができるかもしれない。始めてみると「面白くてしょうがなかった」。

 初めての小説である表題作は今年一月選考の芥川賞候補になった。大阪に住む<俺>と<私>の視点で、貧しく寄る辺ない暮らしを描く。受賞は逃したが「ほっとした」と笑う。「今回は浮かんだイメージを速記した感じ。もし何らかの評価をいただくなら、もっと正面から取り組んだもので、という気持ちがあって」

 タクシーの運転手に、日雇いの建設作業員、コンビニエンスストアの店員…断章ごとに、仕事や置かれた状況の異なる<俺>が登場する。細切れのエピソードの連なりから、ほかの誰かとも交換可能な<俺>の孤独な人生が浮かび上がる。「ここに書いたのは複数の人物ではなく、ある一人の<俺>のつもりです。自分の周りの世界が、予告なしに変わる。変化に振り回される不安定な状態をそのまま小説にしたかった」

 学生時代から三十年来暮らす大阪の街への愛着が、作品のベースにはある。大学卒業後、大学院の試験に落ち、四年ほど日雇いの仕事を続けた。「過酷で先行きが見えない苦しさがある一方で、体を張って生き、自分になれた感じもあった」

 小説を書こうと考えた時、頭に浮かんだのは当時の情景だ。一九九〇年代、一気に景気が悪くなっていくころだった。「ダーッと地盤沈下する感覚。あれからずっと上がれずにいる」。テレビに映るにぎやかでコテコテの街ではない、「寂れて殺伐とした大阪の生活を書こうと思った」。

 表題作のほか、二作目の短編も収録する。「最初は登場人物に名前を付けるのも照れくさかった」というが、二作目では名前が付いた。「だんだん普通の小説に近づいているかも」。発表の予定がないうちから、三作目にも着手した。「底無し沼的な快楽にはまり込んでしまいました」

 新潮社・一五一二円。

  (中村陽子)

 

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