東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > Chunichi/Tokyo Bookweb > 書く人 > 記事一覧 > 記事

ここから本文

【書く人】

被害女性の人生残す 『いつかの夏 名古屋闇サイト殺人事件』作家・大崎善生さん(59)

写真

 「私はこれを書くために作家になったのかなと。書き終えて、うん、作家はもういいかなという気持ちになりましたね」

 「えっ」と驚く“引退宣言”が取材終盤に飛び出した。早世した棋士、村山聖(さとし)さんの人生を追った『聖の青春』でデビューして十七年。大宅賞にもノミネートされた、五作目のノンフィクションはそれほど思い入れのある作品になった。

 二〇〇七年夏、インターネットを通じて知り合った三人の男が見ず知らずの女性会社員を拉致、殺害した。本書は、この「名古屋闇サイト殺人事件」を描いた。“事件物”といえば、犯人を追うのが常道だろう。だが、主人公は殺害された磯谷利恵さん(当時31歳)と母の富美子さん。母と娘の物語である。ニュースで事件を知った大崎さんは、何よりも二人の間の愛情に心を奪われたという。構想は最初から決まっていた。

 利恵さんは一歳の時、父を亡くした。大崎さんは本の半分ほどを費やし、母一人、子一人の暮らしを丁寧な筆致でたどる。それは成長を喜ぶ保育園での一こまだったり、思春期の親子の会話だったり、恋人との出会いだったり。決してドラマチックではない、言ってみればありふれた人生の哀歓が、ひとりの女性の息遣いを実感させる。

 そして事件が起こる。ここでも残酷なほど丁寧に犯行の瞬間が描かれる。数十回もハンマーで殴られながら利恵さんは、あるメッセージを残した。死後、その謎が解かれた時、利恵さんの思いが明らかになる。

 「彼女は最後まで屈しなかった。暴行のシーンを描くのは、残酷なことです。でもそれを書かなきゃ、彼女の悔しさ、母への思い、恋人への思いを晴らしてあげることはできない。自分の責任だと思って書きました」

 綿密な取材には定評がある。二〇一四年に始まった本書の取材では一年弱の間、毎月名古屋に通い、富美子さんにインタビューした。当初は断られたが、熱意にほだされたのか、最後は全面的に協力してくれた。「利恵さんの人生を誰かが残しておかなければならないという確信があった」。この気持ちが二年に及ぶ取材の支えになったという。

 最後にあらためて聞いた。「さっきの引退宣言、冗談でしょう」。「いえいえ、本当に」。穏やかな表情で語る隣で、編集者がぶんぶんと首を横に振っていた。

 KADOKAWA・一七二八円。(森本智之)

 

この記事を印刷する

PR情報



ピックアップ
Recommended by