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【書評】

ゼンマイ 戌井昭人 著

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◆魔術的な時への誘い

[評者]清水良典=文芸評論家

 かつては縁日や祭に見世物小屋が立って、おどろおどろしい看板で怪しく誘惑したものだ。そんな風物がまだ健在だった一九六七年に、フランスから日本にやってきたグランギニョールすなわち見世物興行一座「ジプシー魔術団」に、「ハファ」という不思議な女がいた。頭にリンゴを載せて歩くうちに体が小さくなっていった。さらに小鳥のさえずりのような声で意思を通じたという。当時一座の運転手をしていて彼女と深い仲だった男が、現在七十七歳になっていて、彼女の行方を捜しにモロッコへ行こうとしている。その同行を頼まれたのが三十七歳のフリーライターの「わたし」である。

 ハファから貰(もら)ったネジを巻くだけのゼンマイの小箱を、男は今も魔除(まよ)けになると信じて大事にしている。巻けばジリジリと音を立てるこの小道具が、本書の物語的な時間を一貫して支えている。驚異と官能の混じった世界に、扉を開けて誘う呪文のささやきのようだ。

 幻の女ハファへの男の深い思い入れは、現代の私たちが手放してしまい、二度と出会えないかもしれない魔術的な時間への郷愁に満ちている。そしてすっかりバネが緩んで持ちが短くなったゼンマイは、遠い幻の母の形見のようだ。本書を読み終わったあと、異世界の呼び声は私たちの心の内でジリジリと小さな音を立て続けることだろう。

(集英社 ・ 1404円)

<いぬい・あきと> 1971年生まれ。小説家・劇作家。著書『どろにやいと』など。

◆もう1冊 

 戌井昭人著『まずいスープ』(新潮文庫)。父が失踪した後の母や家族を描いた表題作をはじめ、三篇の作品集。

 

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