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【書評】

影裏(えいり) 沼田真佑 著  

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◆語り得ぬこと ありありと

[評者]小澤英実=文芸評論家

 震災のような「語りえない出来事」をいかに語るか。デビュー作にして芥川賞を射止めた本作は、フィクションに許された資質を存分に活用してその問いに答えた野心作である。

 震災ははじめ遠景にある。語り手の「わたし」こと今野秋一がいる岩手の内陸部では被害が小さく、東京にいる妹から支援物資を頼まれるような状況だ。だが唯一の友人である同僚の日浅が震災当日の釜石でふっつりと消息を絶つことで物語は「あの日」に手繰り寄せられていく。

 美しく流れるような筆致の情景描写がすばらしい。作中にふんだんに登場する釣りの描写は躍動感に満ち、川のせせらぎや広がる木々、闇に揺れるガラス色の炎などが、その音や匂いや温度まで、自分の体験のように生き生きと取り憑(つ)いてくる。その清冽(せいれつ)な自然のなかに、いいしれぬ不穏さが蠢(うごめ)く。日浅の正体をはじめとするさまざまな「事実」は、炙(あぶ)り出しのように徐々に浮かびあがってくる。例えば今野には、どうやら過去にトランスジェンダーの恋人がいたらしい。今野にも他人の知らない顔があり、セクシュアリティは私的な「語りえぬ」こととして、震災に対置されている。

 今野は津波に呑(の)み込まれる日浅の最期の瞬間をありありと想像する。その克明な想像の描写は、実際の記録と同じかそれ以上に読む者の背筋を凍らせる。彼の釣り場である細い支流もやがて大海に行き着くように、読者は前半の魅力的な自然描写に働かせていたのと同じ想像力を、津波という自然災害に対しても向けることになるのだ。

 だが、被災者かもしれない日浅の像には、震災を逆手にとってしたたかに生きている可能性が同時に張り付いている。「大きなものの崩壊」の影に消えていった詐欺師めいた男と、その男を「頼もしく」思う「わたし」。語りと騙(かた)りの距離から生まれるその余白こそが、「震災小説」としての本作の最大の美質であり読みどころである。

 (文芸春秋・1080円)

<ぬまた・しんすけ> 1978年生まれ。作家。「影裏」で今回の芥川賞受賞。

◆もう1冊 

 限界研編『東日本大震災後文学論』(南雲堂)。3・11以降に生み出された、おびただしい数の「震災後文学」を読み解く評論集。

 

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