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【書評】

唱歌の社会史 中西光雄ほか 著

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◆わかりやすさに潜む危うさ

[評者]伊藤氏貴(文芸評論家)

 世代を超えて誰もが口ずさむ歌を挙げるとすれば…「春の小川」「蛍の光」「故郷(ふるさと)」…。どれも小学校で習い覚えた「唱歌」である。しかし本書によれば、昔から変わらず歌い継がれてきたように思える唱歌にも、実はあやうい「歴史」がある。

 「春の小川」の冒頭は「春の小川は/さらさら流る」だった。「さらさら行くよ」というように、全体が口語化されたのはいつ、なんのためだったか。戦後の民主化によるものではない。むしろ日米開戦と前後して、総力戦に向けた少国民養成のために口語教育を徹底する一環としてであった。わかりやすい歌詞は「戦争ファシズムの中で突然与えられたものだった」のだ。

 ファシズムは、かように民主的な装いでわれわれの中に忍び入る。「蛍の光」の、戦後歌われなくなった三番、四番の歌詞には、唱歌としては例外的に地名が詠みこまれ、防衛線としての「千島」「沖縄」に出征する夫を励まし送る詞で全体が閉じられていたことを知る者が今どれくらいいるだろうか。

 一方、冒頭部分を「兎美味(うさぎおい)しい」と、私ならずとも多くの子どもたちが誤解していただろう「故郷」は、特定の土地であってはならなかった。歌詞を吟味すれば、そもそも子どもに歌わせるべきものか疑問が生じる。「如何(いか)にいます父母」と語る主は、故郷に帰るに帰れない中年男だろう。「こころざしをはたして/いつの日にか帰らん」は、少なくとも歌が作られた大正の状況に即していえば「故郷喪失」を歌ったもので、「いつか帰ろう」ではなく「いや帰れない」という反語と解釈すべきなのだと本書は言う。

 「兎」も「小鮒(こぶな)」もいない土地の出身であっても、国民として同じ「故郷」を思い浮かべるための装置としてこの歌は機能してきた。

 お盆に帰る故郷があるとしても、そことは異なり、唱歌の「故郷」とは、実はどこにもない土地なのだと本書は教えてくれる。それは自らのうちのなつかしさが唱歌の持つあやうさと表裏一体であることに気づくことでもある。

(メディアイランド・2160円)

中西は日本文学研究者。ほかに大学教授、詩人、新聞記者など7人が執筆。

◆もう1冊 

合田道人(ごうだみちと)著『本当は戦争の歌だった童謡の謎』(祥伝社黄金文庫)

 

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