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【書評】

なぜ日本はフジタを捨てたのか? 富田芳和著

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◆GHQ占領下 天才出国の真相

[評者]川島高峰(明治大准教授)

 昭和十九年、戦時下の東京美術学校で粛清人事があった。当時、軍部がすすめていた戦意高揚のための絵画、戦争画の作成に協力した画家の全てが役職から追放されたのである。軍国主義の思想統制が厳しかった戦中に、実に驚くべき事件があったことを本書は明らかにしている。

 この戦時下の抵抗は、敗戦後の画壇の戦犯追及へ直結し、元陸軍美術協会理事長の藤田嗣治(つぐはる)がそのやり玉に挙げられていった。かくして藤田は二十四年、日本を出国すると、生涯、日本へ戻ることなくフランス国籍を取得し、パリで亡くなった。

 従来、藤田の日本脱出をめぐっては、藤田が日本に嫌気がさし、日本を捨てたのだと見られてきた。しかし、当の藤田は終生、日本が私を捨てたと語っていた。本書で興味深いのはこの出国の真相を解明した点である。

 実は、藤田に出国の便宜を図ったのは天才画家・藤田に心酔していた連合国軍総司令部(GHQ)当局の関係者であった。占領下を思えば藤田の出国は占領軍当局の協力なしには考えられない。この一点だけでも藤田出国に関するこれまでの言説は杜撰(ずさん)であった。結局、占領軍にとって藤田は戦犯ではなく惜しむべき天才だった。

 他方、戦後の日本画壇にとって藤田は脅威であった。そこには著者が言うような、戦犯として藤田を葬り去ってしまおうという天才へのすさまじいねたみもあっただろう。しかし、藤田の手にかかればアッツ島の玉砕も、サイパンの悲劇も鎮魂画という国民的な名作に変身し、軍部の責任に見事なふたをすることができたのだ。藤田なら占領軍を後ろ盾に民主化推進の国民的な名作も描けただろう。

 確かに藤田の出国には日本が藤田を捨てた面も読み取れるが、その後、終生、一時帰国さえしなかった。藤田にとって戦争も、軍部も、時代も、日本も全てが彼の画材に過ぎなかったのではないか。著者が出国後の藤田についてもつまびらかにされることを期待したい。

 (静人舎・2592円)

 1954年生まれ。美術ジャーナリスト。著書『プロジェクト写楽』など。

◆もう1冊 

藤田嗣治著『腕(ブラ)一本・巴里(パリ)の横顔』(講談社文芸文庫)

 

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