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【書評】

自転車泥棒 呉明益(ご めいえき)著

写真

◆一台の過去たどり 遠く

[評]豊崎由美(書評家)

 台湾台北市のランドマークだった「中華商場」での不思議な出来事を、ノスタルジックな筆致で描いた『歩道橋の魔術師』の作者・呉明益。その最新訳『自転車泥棒』の幹となる物語はシンプルだ。

 一九九三年、自転車に乗って失踪してしまった父親。ヴィンテージ自転車のコレクターで、小説を書いている「ぼく」が、その自転車を発見し、持ち主をたどっていく過程で父の愛機の二十年間の軌跡を知る。ただ、それだけ。しかし、そのストレートな物語から枝葉が生まれ、読者をいくつもの思いがけない光景に立ち会わせてくれるのだ。

 自転車の持ち主を探す過程で出会った写真家アッバスの過去。台湾人も日本軍に徴兵された東南アジア戦線における銀輪部隊での、アッバスの父バスアの従軍記。古い自転車に乗って、父が敗走したマレー半島を下るロングライドに出たアッバスが経験するジャングルでのサバイバル。

 偶然出会った、失踪中の父親から自転車を託されたムー隊長。彼からその自転車を預かることになる女性が、「蝶(ちょう)の貼り絵」名人だった自身の母親をモデルに書いた小説。

 そうした豊かに枝葉を延ばしていく物語に流れているのは、人間だけの時間ではない。動物園で戦争を迎えた生きものたちの悲しい顛末(てんまつ)。終戦間際、輸送部隊に徴用されたビルマのゾウたち。その中のとりわけ賢い一頭、「アーメイ」と「リンワン」ふたつの名を持つ雄のゾウが、アッバスの父バスアとムー隊長の人生を結びつけていることがわかるくだりは、読む者の胸を打たずにはおかない。

 自転車から派生するエピソードは、間を一行あけるスタイルで配置されていて、すべての断章が次の断章の誘い水になっている。出来事が出来事を引き寄せ、記憶が記憶を呼びさまし、人が人をたぐり寄せていく小説なのだ。

 一台の自転車の行方を追う物語が、こんなにも遠くて深いところにまで読者を連れていってしまう。豊かな読書体験を約束してくれる、二十一世紀のヴィンテージになりうる一作だ。

(天野健太郎訳、文芸春秋・2268円)

1971年、台湾生まれ。作家、エッセイスト。本書は昨年の国際ブッカー賞候補作。

◆もう1冊 

呉明益著『歩道橋の魔術師』(白水社)。天野健太郎訳。

 

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