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【千葉】

<原発避難 ふるさとを返して>(中)「原発事故なければ」 南相馬市から避難の菅野さん

秀一さんの遺影の前で、福島県南相馬市での生活を振り返る菅野美貴子さん=千葉市で

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 「人間はどのように生き、どのように死んでいくかを自身で決める自由があり、権利がある。私たちの六年間の避難生活が報われるよう、今後このような思いをする人が出ないようにと祈っています」

 一月三十一日、千葉地裁の二〇一号法廷。東京電力福島第一原発事故を受け、福島県南相馬市鹿島区から千葉市に避難した菅野美貴子さん(62)は、原発避難者訴訟の原告の一人として、そう意見陳述した。一緒に避難した夫の秀一さんは二年前、六十四歳で亡くなった。

 菅野さんは鹿島区出身。同郷の秀一さんと一九七三年に結婚し、息子二人を育てながら秀一さんと石材店を切り盛りしてきた。お年寄りや農協、銀行の職員らがお茶や昼ご飯の際に立ち寄り、客が来ない日はなかった。「楽しかったよ。鮮明で忘れられない」

 東日本大震災と原発事故の直前、秀一さんは長年の仕事の影響でヘルニアを患った。身体障害者手帳の交付を受け、車いすで生活をしていた。宮城県で暮らす長男(42)夫婦が南相馬市に移り住み、石材店を継ぐ計画だった。

 思い描いていた生活は震災と原発事故で一変した。三百三十平方メートルの自宅兼工場のうち、自宅が全壊。秀一さんは車いすでの生活に加え、糖尿病の治療が必要だったことから、南相馬市の指示で、震災から十二日後に千葉市の老人ホームに避難した。二〇一一年七月には現在暮らす千葉市の家に引っ越した。だが、秀一さんは心筋梗塞や肺炎などを発症し、入退院を繰り返すようになった。

 南相馬市鹿島区は国の避難指示区域に指定されなかった。幸い、石材店の工場の機械は使うことができたため、仕事を再開することもできた。だが、秀一さんの治療のことを考え、ふるさとには戻らないと決め、一二年八月に自宅と工場を壊した。

 秀一さんは南相馬市のことを話さなくなり、食欲もなくなった。「ゼロからスタートした工場だった。思い入れがいっぱいだったと思う」。最期は寝たきりとなり、一五年八月に腎不全で亡くなった。

 「原発事故がなかったら、お父さん(秀一さん)の具合が悪くなかったら、南相馬で再建できていたのでは」との思いは消えない。判決後、宮城県と横浜市で暮らす二人の息子のいずれかの元で暮らすつもりだ。「何も考えず、ゆっくりしたい」

     ◇

 訴訟の原告やその家族でつくる「原告と家族の会」の副代表を務める瀬尾誠さん(65)は=長野県飯綱町=は会社を早期退職し、当時住んでいた鎌ケ谷市から福島県浪江町に移住した。浪江町に妻(65)の実家があり、年老いた義父の米作りを手伝うためだった。

 ところが、移住してわずか一年後に原発事故が発生。浪江町は避難指示区域となり、描いていた夢は絶たれた。

 瀬尾さんは今、飯綱町で米の無農薬栽培に取り組む。「千葉の原告だけでなく、福島県から各地に避難した人々が少しでも多くの賠償を認めてもらえる判決がほしい」 (黒籔香織、美細津仁志)

 

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