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【千葉】

福島へ帰りたい、帰れない… 東葛地域に1000人近く避難

「がっかりしたよ」。福島第一原発を目にした感想を話す佐藤利雄さん=松戸市で

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 福島県南相馬市から松戸市に避難している佐藤利雄さん(70)は、一本の新聞記事を常に持ち歩いている。東京電力福島第一原発事故後、ある閣僚が防護服に身を包んで南相馬市を視察に訪れた際の記事だ。「20キロ圏外は大丈夫だと言ったのに、そんな格好で来んな」。記事を読み返し、怒りを新たにする。 (林容史)

 佐藤さんは、福島第一原発で二十六年間働き、燃料プールの水位を監視するなどしてきた。東日本大震災時、原発で働いていた長男は、一週間ほど事故の収束に追われた。その後、佐藤さんは妻と長男らとともに、松戸市内のアパートに避難した。

 震災当時、中学に入学したばかりだった孫の男の子は今年、二十歳になった。福島には帰らず、新天地で成人式に臨んだ。長男は今、東京五輪・パラリンピックに向けて建設が進む新国立競技場で、電気工事の仕事をしている。佐藤さんも松戸市内のスーパーに職を得た。

 佐藤さんは「福島に帰っても仕事は原発しかない。長男も戻りたいとは思っていないんじゃないかな」と話す。

 年明け、事故後初めて原発周辺を訪れた。美しかった松林や、昼休みにマラソンの練習で走ったグラウンドには汚染水入りのドラム缶が積み上げられていた。

 「福島に帰るのは墓に入る時だろうな」。佐藤さんは漏らした。

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東日本大震災の教訓を語り伝える門馬正純さん

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 「隣組の人たちに『六十代に戻ってきてもらわないと困る』って言われるんですよ」。南相馬市から流山市に避難している門馬正純(まさのり)さん(66)は戸惑ったような表情を浮かべる。ふるさとは働き盛り世代が去り、残っているのは八十代がほとんどという。

 震災当時、南相馬市立鹿島小学校の校長だった。学校は津波を免れたが、児童三人と保護者五人が犠牲になった。体育館は遺体安置所になり、校舎で寝泊まりして約四十日後に授業を再開した。再開後も放射線対策や給食の食材確保などに悩まされた。二〇一二年、退職を機に流山市に移った。

 門馬さんは現在、東葛地域の小学校などで被災体験を伝え、震災への備えを訴えている。かつてふるさとで校長を務めた先輩たちからは「震災の経験を千葉の人たちに話せるのは門馬しかいない」と励まされる。通院する妻(63)の体調も気掛かりだ。「戻りたいのはやまやまなんだが…」

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黄色いハンカチで手作りのお地蔵さんを前に祈りをささげる避難者ら

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 東日本大震災復興支援松戸・東北交流プロジェクト(古宮保子代表)が松戸市内に開設した常設型の避難者交流サロン「黄色いハンカチ」の移転先が先月、決まった。副代表で、高い放射線量を危惧して南相馬市から避難している高田良子さん(69)は「移転が決まるまで、みんな不安だった」と打ち明ける。

 黄色いハンカチは、津波被害や原発事故で東北三県からばらばらに避難してきた人たちをつなぐ場として一三年一月に開設された。奥田義人事務局長によると、運営には人件費や光熱費など月七十万円近くかかり、その大半を国の補助金に頼っている。

 復興庁は五年間の集中復興期間を総括、福島を除き震災から十年以内、三年後の二一年度の復興事業完了を掲げる。奥田事務局長は「今後は補助金に頼らない運営を模索しなければ」と説明する。

 移転先では新たに軽食の販売やイベントの開催で収入の道を探りながら、高齢者らを受け入れたり、震災の語り部を務めたりして、より地元に根付いた活動を展開していく考えだ。

 「避難指示の解除で東電の賠償や住宅支援も打ち切られていく。東葛地域にはまだ千人近く避難している。避難者のよりどころとなる場所として残していかなければ」と奥田事務局長は力を込める。

 

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