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【千葉】

<夏の高校野球>2枚の切符懸け全力 100回記念大会に東西163チーム

(左)選手宣誓をする翔凜の泉谷優翔主将(右)昭和学院の井上凱仁主将=いずれも千葉市美浜区のZOZOマリンスタジアムで

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 第100回全国高校野球選手権記念千葉大会が十一日、ZOZOマリンスタジアム(千葉市美浜区)で開幕した。今夏は記念大会で東西2地区に分けて開かれ、2校が甲子園出場の切符を得る。東千葉大会は87校83チーム、西千葉大会は83校80チームの計163チームが出場する。

 開会式では、前年度優勝の木更津総合、準優勝の習志野に続き、東千葉、西千葉の順に各チームが「イチ、ニ」の掛け声に合わせてグラウンドをはつらつと行進した。

 選手宣誓では、東千葉は翔凜の泉谷優翔(ひろと)主将(三年)が「感謝の気持ちを一投一打に込め、勇気と感動を与える凛(りん)とした姿でプレーする」、西千葉は昭和学院の井上凱仁(かつひと)主将(三年)が「東西それぞれ一枚の(甲子園への)切符を手にするため、全力でプレーする」と力強く語った。

 その後、西千葉の開幕戦があり、学館船橋が白井に25−0で五回コールド勝ちした。

 順延がなければ東千葉決勝が二十五日、西千葉決勝は二十六日にZOZOマリンスタジアムで行われる。 (山口登史)

◆白井・村山裕太主将 唯一の3年生 後輩に夢託す

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 唯一の三年生として、臨んだ夏が終わった。白井の村山裕太主将は「結果は悔しいが、試合は楽しむことができた」と前を向いた。

 「輝いて見えた」という先輩の姿にあこがれて野球部に入部した。部員が少なく、ティー打撃やノックなどで腕を磨いたものの「相談できる同学年の仲間がおらず、何度も退部を考えた」と振り返る。

 監督らと部員集めにも奔走し、合同チームではなく単独で臨んだ初戦は、五回コールド負けだった。だが、「出場できて何よりうれしかった」。後輩たちには「ZOZOマリンスタジアムでの経験を糧に、これからもあきらめず、全力でプレーしていって」とエールを送った。

 桜井剛監督は「少ない人数でよくやってくれた。まずはお疲れさまと言いたい」とねぎらった。

◆県勢 甲子園での熱戦の歴史 

 100回目を迎えた全国高校野球選手権千葉大会。全国有数の出場チーム数を誇る県内で、球児たちは夏の甲子園への切符を懸け、熱戦を繰り広げてきた。

 一九一五(大正四)年に始まった夏の甲子園。戦前は千葉中(現県立千葉)、千葉商、関東中(現千葉敬愛)が多く出場。戦後の昭和二十年代までは成田中(成田を含む)が最多の出場を誇った。

 千葉を「野球王国」へと押し上げたのは、一九六〇年代の伝統校・銚子商と新興校・習志野の2校のライバル関係だった。両校の活躍がもたらした千葉の「黄金時代」は七〇年代まで続いた。

 銚子商は五八年に夏の甲子園初出場。4回目の夏となった六五年、県勢として当時の歴代最高成績となる準優勝を果たした。追うようにして六七年、2回目の夏の甲子園で習志野は、県勢初の全国制覇を果たす。七四年夏に銚子商が全国制覇。七五年夏には習志野が2度目の全国制覇を果たした。

 その後、県勢の構図は大きく変わり、群雄割拠の時代を迎えた。七八年に我孫子が初出場。八三年には印旛(現印旛明誠)が初出場。市立船橋や拓大紅陵といった学校も台頭した。21世紀に入ってからも混戦状態が続く中、木更津総合が二〇〇三年の初出場以来、6回出場している。

 県高野連の圓城寺一雄会長は「熱心な指導が多いのが特徴だ。今後も各校で切磋琢磨(せっさたくま)を続け、50年、100年と千葉の高校野球が続いてほしい」と話した。 (山口登史)

 

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