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【千葉】

<つなぐ 戦後73年>親子で伝え20年目 朝鮮人強制労働など 毎年資料展

戦時中に大網白里市にあった工場について伝え続ける黒須俊夫さん(右)と俊隆さん=大網白里市で

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 戦時中、大網白里市で日立航空機千葉製作所の地下・半地下工場の建設工事がひそかに進み、多くの朝鮮人労働者が強制労働させられていた。元教員の黒須俊夫さん(89)は工場の実態を調べ、一九九九年から写真や証言パネルで紹介する資料展を毎年開催してきた。今では長男の俊隆さん(51)が父親の思いを引き継ぎ、今回で二十回目を迎えた。 (黒籔香織)

 黒須さんの調査によると、千葉市の現在のJFEスチール東日本製鉄所千葉地区付近に日立航空機千葉製作所があった。空襲の被害を受けるのを避けるため、一九四四年秋から大網白里市の旧大網町宮谷(みやざく)地区や周辺で地下・半地下工場の建設計画が進められた。零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の練習機やエンジンの部品を製造する目的だった。

 計画された五つの地下工場のうち、二工場しか完成せず、四五年八月の終戦で工事は中止となった。黒須さんが聞き取った証言によると、約三百五十〜四百人の朝鮮人がこの工事に従事していたという。

 県立高校などで社会科の教員を務めていた黒須さんは、地元にあった工場計画に興味を持ち、定年退職後の九一年からこの工場の実態を調べ始めた。当時大学生だった俊隆さんも調査団の一員として、工場跡地に入ってトンネルの長さを計測したり、当時を知る人たちへの取材に同行したりした。

 その後、黒須さんは「戦時下の郷土を考える会」を立ち上げ、資料展を毎年開いてきた。高齢などを理由に、四年前、俊隆さんに代表を譲った。当時の調査結果を詳しく記した資料も渡した。黒須さんは中学三年生だった四四年九月から約九カ月間、学徒動員で横浜市の工場で働いた経験がある。俊隆さんは「戦争を体験した世代の責任から、後世に伝えようと研究に取り組んでいたのだと思う」と語り、父親の意思を引き継ぐ。

 今年も大網白里市保健文化センターで今月三〜五日に資料展が開かれた。

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 工場は戦後にほとんどが埋められ、跡地は新興の住宅団地となり、道路が整備された。

 俊隆さんは「二度と戦争をしない、させないためにも、日本の加害者の面も伝えないといけない」と強調。戦争体験者が少なくなる現状に「残された資料が重要になる。資料から何を伝えていくのかを考え、工夫することが大事になる」と話す。

 

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