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【千葉】

<つなぐ 戦後73年>終戦の日の県内  市川などで慰霊行事

「平和の鐘」を鳴らす高校生=市川市のJR市川駅コンコースで

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 「終戦の日」の15日、県内各地でも戦没者慰霊行事が営まれた。「あの日」から73年。広島、長崎市への原子爆弾投下(6、9日)もあった。市川市では、広島で被爆した市川被爆者の会副会長の児玉三智子さん(80)=同市=の講演会が、市中央こども館で開かれた。「二度と戦争はしない」「核兵器の廃絶を」。人々の祈りが広がった。 (保母哲)

◆市川駅で高校生が「平和の鐘」

 市川市では正午すぎ、JR市川駅コンコースなどで「平和の鐘」が打ち鳴らされた。地元の高校生ら参加者は、黙とうに続いて一人ずつ高さ二十三センチの鐘を鳴らし、両手を合わせた。

 参加した国府台女子学院高等部二年で、生徒会副会長とボランティア部部長を務める渡辺真帆さん(16)は「日本は世界で唯一の被爆国。戦争はいけない、核兵器もいけない−と私たちが伝えていかないと」と話した。

 日出学園高校二年の生徒会長、松木由佳里さん(17)も「私たちは戦争のことを知らないけど、知ろうとしないと、その悲劇は忘れ去られてしまう」と語った。

 「平和の鐘」は市川市ユネスコ協会が毎夏、催している。今夏は市川駅のほか、市内の四つの寺と二つの教会が正午前後、鐘楼の鐘などを打ち鳴らした。

広島に投下された原爆の惨状を描いた絵を説明しながら、体験を語る児玉三智子さん=市川市中央こども館で

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◆広島で被爆児玉さん講演「核兵器なくさないと」

 ものすごい光が迫ってきた。私は当時、国民学校二年で七歳。教室にいました。光に続きすごい爆風がきて、教室の窓ガラスなどの破片が飛び散り、壁に突き刺さったんです。私はとっさに机の下に隠れたんですが、ガラスの破片が体に刺さりました。

 上空約六百メートルでさく裂した原爆は、放射能と爆風、三千〜五千度の熱線で広島の街を襲い、火の海にしました。三・五キロ離れた自宅は爆風で屋根が吹き飛び、やがて放射能を含んだ「黒い雨」が降りました。

 私の家に逃げてきた親戚のお姉ちゃんは全身やけど。「痛いよ」と繰り返しながら、私の腕の中で亡くなりました。十四歳でした。親戚のお兄ちゃんは十歳で、私と同じ軽傷に見えましたが、突然、耳と鼻から血を流し、「ウワー」と叫びながら口から血の塊を噴き出して倒れ、亡くなってしまいました。

 被爆者ということで差別を受けました。「被爆は(他人に)うつるから」と。結婚しようとしたら、相手方の人から「被爆者の血を家系に入れる訳にはいかない」と言われました。でも、その後に結婚でき、娘二人を授かりました。二人は順調に成長したんですが、八年前、次女にがんが見つかり、間もなく亡くなった。原爆の影響かどうかは分かりません。

 核保有国の指導者は「自国を守るため核抑止力が必要」と説明しますが、私は「核で国民の命は守れませんよ」と伝えています。もし使われたら、私のような被爆者が生まれる。「いつ病気が露見するか」とびくびくしながら暮らすことになるんです。こんな核兵器は、なくさないといけないんです。

 

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