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【千葉】

敗戦時の首相・鈴木貫太郎の心情に迫る 野田の記念館で企画展

吉田茂、マッカーサー書簡について説明を受ける来館者

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 第二次世界大戦の終末を見届けた首相・鈴木貫太郎をしのぶ企画展が野田市関宿町の鈴木貫太郎記念館で開かれている。吉田茂元首相と連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官ダグラス・マッカーサーの往復書簡を通じて鈴木の人柄を紹介し、鈴木も襲撃された二・二六事件の現場を妻タカさんの証言で再現する。平成最後の終戦の日を迎えた今年、「千葉の偉人を多くの人たちに知ってほしい」と同館は来場を呼び掛けている。 (林容史)

 昨年、同館の学芸員に就任した笹川知輝さん(27)が、マッカーサーが吉田に宛てた書簡をあらためて確認。鈴木の没後七十年に合わせて企画した。

 終戦からちょうど一年後の一九四六年八月十五日付の毎日新聞に、終戦時の鈴木の心境が掲載された。「降伏を受け入れるときの気持ちは私としては至極平静であった」と書き起こし、「武士道は日本の独占物ではない」と断言、「武人の一人としてこの心理を固く信じていた」と敗戦国の処遇を左右するマッカーサーへの信頼に言及した。

 当時、首相だった吉田はすぐさまこの記事を英訳してマッカーサーに送り、即日、マッカーサーから書簡(礼状)が届いた。

 企画展では、同館に所蔵されていたマッカーサーの書簡を、吉田書簡の複製とともに展示している。マッカーサーの書簡も、吉田側がタイプし直した複製の可能性があるという。

 笹川さんは「全てがたった一日の出来事だったことに意味がある。交渉術にたけたマッカーサーは返信を遅らせるのが常で、思惑抜きで好意的にとらえたのでは」と話す。吉田書簡には「武士道」を強調して下線が引かれてあり、笹川さんは「ストレートに相手に思いをぶつけるあたり、吉田さんの交渉のうまさが見て取れる」と感心する。

 二・二六事件を巡るタカさんの証言は、一九六三〜六五年頃、録音されたとみられる。オープンリールテープの音声のみだったが、今回、関係者の写真を使うなどして十二分二十一秒の映像にまとめた。

マッカーサーが吉田茂に宛てた礼状=いずれも野田市で

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 就寝中、数十人の兵隊が塀を乗り越えて官邸に押し入り、応対した鈴木が撃たれた様子を克明に語っている。「とどめ、とどめ」とせかす兵たちを押しとどめた襲撃のリーダーに相対し、タカさんが「なんでこんなことになったのか」と問いただす。「意見の相違です」と聞くと、「それなら仕方ない」と、リーダーの名前のみを尋ねる。

 笹川さんは「襲撃した側、された側の意見は食い違うもの。しかしタカさんの冷静な対応について、双方の証言は一致している」と指摘する。

 企画展を訪れた茨城県坂東市の大学一年木村彼方(かなた)さん(18)は「小さな記念館に歴史の岐路に携わった記録があることが、とても有意義。鈴木貫太郎の思いが吉田茂を通しマッカーサーに伝わったことが分かった」と話していた。

 十一月四日まで。今月三十日と九月十四日、十月十六日の午前十〜十一時には、笹川さんによる解説がある。開館時間は午前九時〜午後五時。入館無料。月曜休館(祝日開館)。問い合わせは同館=電04(7196)0102=へ。

<鈴木貫太郎(1868〜1948年)> 関宿藩の飛び地だった和泉国(堺市)で生まれた。小学校時代を関宿(現野田市)で送る。日清、日露戦争に従軍。連合艦隊司令長官、軍令部長を歴任し、侍従長に就任。二・二六事件で官邸で銃撃され重傷を負った。1945年4月に首相に就任、ポツダム宣言受諾を決定し8月15日、総辞職した。妻タカさんと関宿で余生を送った。

<二・二六事件> 陸軍皇道派青年将校を中心とするクーデター。1936年2月26日未明、約1400人の兵を率いて首相官邸や警視庁などを襲撃、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相らを殺害するなどした。東京市に戒厳令が公布され、海軍や昭和天皇の意向を受け、陸軍が反乱軍として鎮圧に乗り出した。鎮圧まで4日間を要した。この事件をきっかけに軍部の発言力が増していくことになる。

 

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