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【社説】

盧溝橋事件80年 歴史に「愚」を学ぶとき

 北京郊外で旧日本軍に銃弾が撃ち込まれた盧溝橋事件から八十年になる。これが八年間に及ぶ日中戦争の発端になった。止められた戦争と歴史は教える。

 十三世紀にイタリア人のマルコ・ポーロが「東方見聞録」で「世界一美しい橋」と西欧に紹介した。橋のたもとには十八世紀の乾隆帝の筆による「盧溝暁月」の石碑も立つ。

 一九三七年七月七日夜。日本軍の支那(しな)駐屯軍は盧溝橋近くで夜間演習をしていた。橋の東岸には宛平県城があり、城を守る中国兵の姿があった。演習前に中隊長は「支那兵に向けて、挑発的な行為や言動があってはならない」と訓示している。

◆「撃たれたら撃て」の命令

 午後十時半ごろ。いったん夜間演習を中止するため、伝令を走らせると、背後から三発の銃声が襲った。ひゅー、ひゅーと、空気を切って飛ぶ、弾丸の飛行音が聞こえた。さらに十数発もの弾丸が…。兵隊たちの頭上をかすめて続けざまに実弾が飛んだのだ。

 けたたましいラッパが鳴った。残る二個中隊と機関銃中隊、歩兵砲隊が動きだした。大隊が集結したのは翌午前三時ごろである。また三発の銃声があった。

 北京市内にいた連隊長の牟田口廉也は緊急連絡に「敵に撃たれたら撃て」と指示した。総攻撃の命令に他ならなかった。

 中国国民党の指導者蒋介石は日記に「倭寇(わこう)は盧溝橋で挑発に出た。(中略)われわれを屈服させようというのだろうか?」「宛平県城を固守せよ」(蒋介石秘録)と書いた。

 盧溝橋事件で日本軍は死傷者を出したわけではない。また、誰が発砲したのか、いまだに諸説あって不明なのである。

 それなのに国内では既に「蒋介石など一撃で倒せる」という「強硬論」が沸き立っていた。

◆拡大・不拡大で割れる

 参謀本部の作戦課長、陸軍省でも軍事課長らが主張した。陸相の杉山元ら幹部も拡大論だった。

 むろん不拡大論を強く主張する者もいた。参謀本部作戦部長の石原莞爾がそうである。戦争指導課や陸軍省軍務課の多くも「不拡大論」であった。

 軍部の中でも「拡大」「不拡大」の意見が真っ二つに割れていたのである。

 首相の近衛文麿は不拡大方針だった。かつ現地で停戦協定が成立したにもかかわらず、華北への派兵が決定し、戦争拡大へと歯車は動きだした。盧溝橋事件は幾重にも謎に包まれている。それなのに戦争を始める。「愚」である。不要な戦争であった。

 七月十七日になると蒋介石も「最後の関頭」と呼ばれる有名な談話を発表した。徹底的な抗戦で民族を守る決意の言葉である。そして、中国国内で対立していた国民党軍と共産党軍とは「国共合作」で手を結び、ともに抗日戦争を戦うことになった。

 日中戦争は華北での戦闘ばかりか、上海での戦闘もはじまり、日本からは派兵に次ぐ、派兵…。全面戦争に陥った。泥沼の戦争と化していったのである。

 終結の見通しもなく戦争を始めるのも「愚」、莫大(ばくだい)な戦費を考えないのも「愚」である。首都・南京を陥れても奥地へ逃げられると考えないとしたら、これも「愚」である。背後からソ連に突かれないと信じた「愚」もある。

 そもそも戦争の公式目的が「中国を懲らしめるため」である。そんな荒っぽい理屈が当時の国際社会に受け入れられるはずもない。戦争の名目さえ立たなかったのも「愚」である。

 むろん途中で幾度か和平の道も探られた。しかし、そのたびに日本は相手に厳しい要求をするため、和平はとても成立しなかった。寛容さがあれば、戦争を止めることもできた。和平を台無しにした「愚」もあるのだ。

 日中戦争ばかりでない。三一年の満州事変は、何と日本の「自衛権」の発動として引き起こされた。それ以後、中国東北部は日本軍の占領下に置かれ、やがて満州国がつくられた。日本の傀儡(かいらい)国家としてである。

 この問題については、有名なリットン調査団が報告書をつくり、三三年に国際連盟総会で採択が行われた。その報告書に不満を持った日本一国のみ「反対一票」を投じ、国際連盟を脱退した。

◆平和主義変質の今こそ

 日本の国際的な孤立はこのときから始まる。この「愚」こそ、日中戦争にも、のちの太平洋戦争にも確実に結び付いている。

 戦争の歴史は私たちに示唆に富んだ教訓を与える。戦後七十二年になる今、平和主義の道を進んできた日本が「戦争のできる国」へと変質しつつある。

 こういう時こそ、歴史の「愚」を学ぶときであろうと思う。

 

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