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【私説・論説室から】

色丹島にあった食糧庫

 北方領土・色丹島出身の中田勇さん(89)は一九四五年の終戦時、根室商業学校(現北海道根室高校)の五年生だった。学徒動員されて、トドマツの葉を蒸留して油を取る作業に従事した。軍用機の燃料にするためだった。

 終戦の一カ月前に根室市は米軍の空襲に見舞われ、市街地の七割が焦土になった。中田さんが身を寄せていた祖父も焼け出され、色丹島で漁業を営んでいた中田さんの父母を頼って島に渡った。ソ連軍が色丹島に上陸したのはその年の九月一日だった。

 小さな漁船で島を抜け出す人もいた。ソ連兵の目を盗むため、深夜の荒天時に決行する命からがらの脱出行だった。

 一方で、島への潜入を試みる人もいた。実は中田さんの実家の近くには、日本軍の食糧庫があり、「三年は大丈夫と言われた量」(中田さん)が保管されていた。焼け野原の根室は食料難。そこで米を目当てに忍び込む人がいたのだ。ソ連兵に見つかり命を落とす悲劇も起きたという。

 米はソ連当局に使役された島民に分配された。それが尽きる頃、島民は日本に送還されたという。動員されて根室に残らざるを得なかった中田さんが、色丹島から引き揚げてきた家族と再会できたのは四七年末だった。

 根室東端の納沙布岬から色丹島までは約七十三キロメートル。実際は、島ははるかに遠い存在である。 (青木 睦)

 

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