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村上春樹さん『騎士団長殺し』 私はこう読んだ

 村上春樹さんの長編小説『騎士団長殺し』(新潮社)が先月発売された。複数巻にわたる本格長編は『1Q84』以来、7年ぶり。注目を集める新作をどう読んだか、村上作品を読み継いできた3氏に寄稿してもらった。

村上春樹さんの新刊『騎士団長殺し』を発売開始直後に買い求める人たち=2月24日午前0時、東京都千代田区の三省堂書店神保町本店で

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◆沼野充義 メッセージ響く

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 村上春樹の新作は、二巻あわせて千五十ページ近い大作だ。作家の成熟を思わせる端正な文体で書かれているとはいえ、かなり複雑な主題やイメージが溶け合った作品で、しかも「イデア」とか「メタファー」といった抽象的な言葉がキーワードになっている。手軽に読めるエンターテインメント作品とは言いにくいが、それがすでに大ベストセラーになるほど魅力的だというのは、さすが作家のブランド力というものだろう。

 最初のうち、物語の展開は比較的地味で、三十六歳の画家が離婚の危機を通じて経験する精神的な危機を、「私」という一人称でリアルに語った、一種の芸術家小説のように読める。その一方で、屋根裏から出てきた「騎士団長殺し」と題された強烈な印象を与える絵や、ある妄執にとらわれて主人公に接近してくる白髪の中年男など(その名字も免色(めんしき)という奇妙なものだ)、「文学的」な仕掛けも目立つ。主人公が住んでいるのが市井の生活から孤絶した山頂だというのも、象徴的だ。

 しかし、夜な夜な、家の近くの地中から鈴の音が聞こえてくるという奇怪な出来事から、物語の歯車が回り出す。これもまた、上田秋成の怪談を踏まえた「文学的」な仕掛けである。そしておなじみの、井戸のような深い穴が登場し、そこから異世界につながっていくというファンタジー的な展開が一方にあり、他方では歴史をさかのぼってナチスドイツの時代のウィーンや、日中戦争の際に虐殺が行われた南京へと、舞台は広がっていく。この歴史的アプローチは、今後この作品が翻訳された際に、国際的に強い反応を引き起こすだろう。

 とはいえ、この作品で幾重にも仕掛けられた謎の数々は、はっきりと解決されないまま第二部は終わり、読者は必然的に続編を期待することになる。しかし、それよりは、第二部の終わりで響く、「信じる力」というポジティヴなメッセージを受け止めるほうが重要ではないか、と私は感じた。

 (ぬまの・みつよし=東大教授。ロシア・東欧文学。著書に『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』など)

◆窪美澄 深化しない物語

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 村上春樹が現存する作家であり、その新作を同時代に読めるという喜びは何物にもかえがたい。村上ワールドにどっぷり浸(つ)かるぞ!という喜びを噛(か)みしめながら、最新作『騎士団長殺し』を読み始めた。

 ファンであるからなおのこと、読み進めながら、作者はこう物語るだろう、という補正線を頭の中に引いてしまう。本作で登場したナチスのオーストリア侵攻、南京虐殺の描写、さらには東日本大震災など、目に見える世界が内包している暴力性と、肖像画家である主人公が目に見えない世界で闘い、再生していく物語なのだろうと。そう勝手に期待して読んだせいでもあるのだが、第二部の「遷(うつ)ろうメタファー編」では正直なところ、肩すかしを食らった気分になった。こうした社会的な出来事は表面をさっと撫(な)でられるだけで物語は深化してはいかない。

 ラストシーンで、異世界につながる穴に潜り、冥府巡りを終えた主人公は「恩寵(おんちょう)のひとつのかたちとして」とある決心をするわけだが、冥府巡りが非現実的なものとして書かれているせいだろうか、ネガがポジに変わるような力強さをどうしても感じられなかった。

 生活に困っている人も、性を求めて、子どもを求めて、拒否される人も出てこない。それらはこの物語では簡単に手に入ってしまう。もちろん、そうした物語はあっていいし、それは今の作者が描く(描きたい)人ではないのだろう。けれど、二〇一七年の日本に生きる一人の人間として、物語に登場するワイン、車、オペラ、というアイテムにどうしようもなく距離を感じてしまう自分もいる。

 村上春樹の小説は、「村上春樹」というスタイルの発明であったと感じる。それは例えば、ジャズという音楽が生まれたことに匹敵するくらいの出来事であったと思う。それなのに感じてしまうのだ。手練(てだ)れのミュージシャンがヒット曲をくり返し演奏しているかのような余裕を。箱庭的な物語に耽溺(たんでき)することなく、さらに逸脱した村上春樹の世界を私は読みたい。

 (くぼ・みすみ=作家。新刊『やめるときも、すこやかなるときも』が24日発売)

◆石原千秋 文学的な転回

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 『騎士団長殺し』はこれまでの村上春樹のどの小説にも似ているし、どの小説にも似ていない。細部のテイストはこれまでの村上春樹の小説の再利用のような趣さえある。この「手記」の書き手の肖像画家「私」が受け身なのも、穴が重要な意味を持つのも、向こう側の世界から戻ってくる冒険譚(たん)も反復で成り立っている。それらを指摘するのは簡単だし、それらを楽しむのが村上春樹ファンの特権だろう。しかし、根本的な構造がどこかちがっている。

 「私」が秋川まりえという十三歳の少女の肖像画を描くことになったとき、十二歳で亡くなった彼の妹に重ね合わされていることがわかる。インセスト(近親相姦(そうかん))の欲望。肖像画を描いているのだから当たり前なのに「上半身」が強調されるのは、彼の関心が実は秋川まりえの下半身に向いているからだろう。そういう文学的想像力が働きはじめると、登場するすべての女性が重ね合わされているように見えてくる。

 「私」が離婚届を送った妻とセックスする夢を見る。そのために、妻は浮気相手との子を妊娠したはずなのに、「私」はそれが自分の子供のように思う。妻は離婚届を提出していなかったから法的にはたしかに彼の子なのだが、まるで聖母マリアの処女懐胎を反転させたように、妻が彼の想像上の子を妊娠するのだ。秋川まりえの乳房が大きくふくらんだとき、「私」の想像上の子を妊娠するかもしれない。「私」に肖像画を依頼する奇妙な免色渉(めんしきわたる)も、DNA鑑定が不可能ではないのに、秋川まりえが自分の子ではないかという可能性だけに賭けようとする。女性たちとの関係の中心にインセストの感覚を埋め込むことで、現実は可能世界に変容する。村上春樹文学は、それまでの男たちと女性たちとの関係を書き換えたと言っていい。

 主人公は会話では「ぼく」と言うが、この「手記」を書くときには「私」だ。「僕小説」とまで呼ばれる村上春樹の文学転回を読んでいい。村上春樹はまだまだ若い。

 (いしはら・ちあき=早稲田大教授。日本近代文学。著書に『反転する漱石 増補新版』など)

 

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