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【土曜訪問】

陰影深い感情 伝える 震災後の福島題材に執筆 志賀泉さん(作家)

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 作家志賀泉(いずみ)さん(56)は福島県南相馬市小高(おだか)区で生まれ育った。卒業したのは、東京電力福島第一原発から約三キロのところにある県立双葉高校。上京後、四十三歳で太宰治賞を受賞して作家デビューした。小中学校の五十歳の同窓会が開かれた半年後に、東日本大震災が起きた。

 当時は川崎市で警備員として働きながら小説を書いていた。原発事故を知ったときは「頭が真っ白になった」。原発二十キロ圏内にある実家の両親は、兄が内陸部に避難させた。避難先にちりぢりになった同級生の名簿づくりに、仲間と手分けして取り掛かった。

 あれから六年。震災後の福島を題材にした小説二編を収めた『無情の神が舞い降りる』(筑摩書房)を刊行した。作品に込めた思いを聞こうと、志賀さんの働く知的障害者施設がある東京都狛江市を訪ねた。

 「書き始めたのは震災後、三年ぐらいたってからです。自分の体験を客観視して作品に昇華できるまでに、それぐらいの時間は必要でした。同級生たちの体験や言葉を、ところどころに落とし込みました。彼らの言葉を残すための小説と言えるかもしれません」

 表題作は、原発から二十キロ圏内にある町が舞台。震災後、主人公の男性は寝たきりの母親と自宅にとどまる。無人の町に少年時代の記憶がよみがえり、過去と現在が交錯する。

 もう一編の「私のいない椅子」は、原発のある町から福島県の内陸部に避難した女子高生が主人公。「福島の高校生がフクシマの映画を撮る」という企画のヒロインとなるが、脚本は世間がイメージする被災者像を押しつける内容に変わっていった−。

 「被災者が百人いれば百通りの物語がある。それぞれの立場に身を置いたときに、違った現実が見えてくる。それを掘り起こしていって、初めて全体が見えるのだと思います。一人一人の個人の思いはどうだったかを伝えたかった」

 志賀さんが双葉高校に入学したとき、最初の遠足で訪ねたのは福島第一原発だった。野球部のスローガンは、核分裂を起こすように打球が四方八方に飛ぶことを意味する「アトム打線」。同級生の家族の多くは原発関連の仕事をしていた。原発は当たり前のように、すぐそばにあるものだった。「原発が危険だと思う人の方が不思議でした」と振り返る。「事故を知ったとき、だまされたという思いはありませんでした。ただ切なく、悲しかった」

 事故後、「被災地の思いを伝える橋渡し役になりたい」という思いから、作家加賀乙彦さんらがつくった「脱原発社会をめざす文学者の会」に参加した。だが、原発再稼働に反対するデモには参加したことがない。「原発で働く同級生もいます。だから怒りがなえちゃう。私の中に抱えるこうした矛盾や葛藤を、小説の人物全員に割り振りました。主人公の敵役のような人物も含め、全員が好きです。私は国や東電など敵をつくって批判するのではない、別の道を考えたい」

 故郷の小高区は昨年七月に避難指示が解除されたが、放射線への不安も強く、住民の一割ほどが戻っただけだ。母校の双葉高校は今月から休校になった。無人の町で「この町を守りたい」と誓う小説の主人公は、志賀さんの姿と重なる。「風土を残しながら復興することが大切です。『原発のまちおこし』が『ゼネコンのまちおこし』に代わるだけではいけない。原発ゼロを実現するためには、過疎地の自治体が自立できる仕組みをつくらないと」

 震災後、ルポルタージュ執筆やドキュメンタリー映画制作に携わった時期があったが、今は小説という表現手段に絞った。

 「小説は体験者の証言の記録には勝てないと最初は思っていました。しかし、証言は編集する段階で、その裏にある感情が抜け落ちてしまう。怒りの言葉一つとっても、その裏側にはひと言では言いきれない、陰影の深い感情がある。それをくみ上げられるのが小説です。危険を冒して被災地を支援してきた側の話も今後は書いていきたいと思っています」 (石井敬)

 

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