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【土曜訪問】

人間はもっと賢くなれ 生物のあり方に反する社会危惧 中村桂子さん(JT生命誌研究館館長、理学博士)

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 『蟲愛(むしめ)づる姫君』は平安時代に書かれた短編の物語だ。主人公は毛虫を好む風変わりなお姫さま。彼女は身なりにかまうことなく、好奇心の赴くままおぞましい虫たちと触れ合う。その姿に周囲は眉をひそめるが、そこには生命の本質を見極めんとする賢さが秘められていて−。

 大阪府高槻市のJT生命誌研究館は、入り口にびょうぶ型のパネルを置き、この物語と最新のチョウの研究成果を合わせ鏡のごとく紹介する。古典文学と現代科学を結んだのは、館長の中村桂子(けいこ)さん(81)。「私、この姫にとても共感するんです」とほほ笑む。

 同研究館は、遺伝子を調べてカエルやイモリが形をつくる仕組みを探ったり、チョウが幼虫の食草をどのように見分けるかを解析したりと、さまざまな研究を進める。その一方で「科学のコンサートホール」を掲げ、展示やイベントを通じて生物学の今を人びとに伝える。子どもも参加するイベントで、ミミズが土を運ぶ量を三十年がかりで調べたチャールズ・ダーウィンの研究と、詩人まど・みちおさんがコミカルにミミズを描いた詩を一緒に披露するなど、その発信はユニークだ。

 DNAの構造や進化の歴史を解説する館内展示は、難解なものもある。それでも変化に富んだ見せ方が詩のように感性を刺激し、「生命ってすごい」というシンプルな感動を生む。入館無料だが侮るなかれ。きちんと音声ガイドを聞きながら巡ると、一日費やしても全てを見学しきれない。「研究論文は楽譜みたいなもの。それを工夫して表現することで、第九演奏のように皆に楽しんでもらいたいの」と中村さん。目指すのは外に開かれた研究所だ。

 中村さんは東京・四谷で五人きょうだいの二番目として生まれた。太平洋戦争で家を失う苦労を経て、東京大に進学。「高校時代にすてきな先生がいた」から化学を専攻した。運命の出合いは三年生の時。二重らせん状のDNAの存在を知り、衝撃を受けた。「こんなものが体の中に?」。早速仲間と竹ひごで模型を作り、文化祭で発表した。DNAの研究者も女性の研究者もわずかな時代。その黎明(れいめい)期から関わってきた。

 DNA研究は、米国が国家的プロジェクトに位置付け、がん治療など実利的な分野で盛んになった。しかし中村さんらが試みたのは別のアプローチだ。DNAには生命の来歴が刻まれている。それを調べることで、人間と他の生き物の共生のあり方を探った。根本にあるのは、生き物は全て三十八億年前の一つの細胞が起源だという事実。「私たちは機械のように突然作られた存在ではない。皆自分の中に三十八億年の歴史を抱えているんです」と力を込める。

 子育てに専念するため一時は研究から離れたが、復帰後は持ち前の行動力でスポンサー企業を探し、一九九三年に生命誌研究館をオープンさせた。なぜ「生命史」でなく「生命誌」なのか。そこには深いこだわりがある。「歴史って、織田信長とか徳川家康とか、時代の勝者がつくった記録でしょう。そうじゃなくてバクテリアも人間も同列に扱う場所にしたかった。普通の生命科学研究所にしては駄目だと思ったんです」。鶏やネズミに温かなまなざしを向けたフランスの作家ジュール・ルナールの短文集『博物誌』にもちなんだという。

 「大きいものを見るためには、小さいものを見続けなきゃいけない。巨視的な進化論を発表しながら、小さなミミズを追い続けたダーウィンに教わりました」。中村さんは生物学者として、多様性がどれだけ重要かを知る。強者が弱者をのみ込み、人やカネが一極に集中してゆく時代。保守主義が台頭し、排他的になる社会。もの申さずにはいられない。「今の世界は生き物のあり方に反していて、このままでは壊れてしまう。人間はもっと賢くならなくちゃいけない。学者や政治家や経営者だけじゃなく、全ての人たちが」

 人と社会が健全に在り続ける鍵は、謙虚さと寛容にあるとみている。「本当の幸い、本当の賢さに目を向けて。ほら、宮沢賢治の言葉みたいに」 (岡村淳司)

 

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