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【土曜訪問】

「後ろめたさ」抱えて 戦没画学生の絵を守り20年 窪島誠一郎さん(無言館館主、作家)

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 戦没画学生の絵を収集、展示する「無言館」(長野県上田市)が一九九七年の開館から二十年を迎えた。館主の窪島誠一郎(くぼしませいいちろう)さん(75)は自身の戦後を重ねながら、この希有(けう)な美術館を守ってきた。

 「せめてこの絵の具を使い切ってから行きたい」。外では出征兵士を見送る万歳が聞こえる中、ある若者は両親にこう言ってなかなか絵筆を置こうとしなかった。無言館に展示された画学生の言葉だ。「彼らは戦地に旅立つギリギリまで、あと五分、あと十分、描きたいと願った。本当に絵筆の音が聞こえてきそうです」。窪島さんは言う。

 開館のきっかけは画家野見山暁治(ぎょうじ)さん(96)との対談だった。東京美術学校(現東京芸大)を経て旧満州に出征した野見山さんは「ほっとけば彼らの絵はこの世から消えてしまう」と漏らした。村山槐多(かいた)、関根正二らに魅了され、彼らの作品を展示する「信濃デッサン館」を運営していた窪島さんはこの言葉に突き動かされる。「金に困っていましたし、ビジョンも何もなかった。ただね、絵描きは死んでも、作品が残っていれば生きているんです。本能的にどうしてもほっとけなかった」。全国の遺族を訪ねる日々が始まった。

 夫を失った女性は、絵を預けるかどうか逡巡(しゅんじゅん)した。「預けたい。でも自分が死んだら棺(ひつぎ)に入れてほしい」と言って。最後は「無言館ができたらそこで夫と再会します」と委ねたが、間もなく亡くなった。

 “画家前夜”の若者たちの絵は稚拙だった。だが、遺族のこうした声にも背を押された。「描かれているのは愛する家族や故郷の風景です。遺族にしてみれば遺言で、画学生にしてみれば祈りを込めた写経のようなもの」。絵が集まり始めると「もっと描きたい」という叫びを絵から聞いた。

 開館するとメディアに取り上げられ、評判になった。ところが、このことが徐々に窪島さんをさいなむ。「簡単に言うと戦没画学生で一発当てたようなもんです。画家は夕焼けの色を、花の白さを、恋人の肌の色を、自分たちの表現を見つめてもらいたいと思う。これは戦争で亡くなった人の絵ですという枕詞(まくらことば)を彼らは欲しているのか」

 こうした気持ちを窪島さんは「後ろめたさ」と表現した。目取真俊(めどるましゅん)さんの芥川賞受賞作『水滴』は、戦地で友人の水筒の水を飲んで生還した男性の呵責(かしゃく)を描いた。その主人公に自身を重ねた。

 窪島さんは真珠湾攻撃直前の一九四一年、東京に生まれた。家庭は貧しく二歳で靴修理をしていた養父母の元へ。実父が作家の水上勉さんと知るのはずっと後のことだ。記憶に残るのは空襲で焼け出されたこと。高校卒業後、東京で開業した酒場が高度経済成長の波に乗って大当たりした時には「本能的に過去は振り返らなかった」。ここにも「後ろめたさ」がある。

 「何でしょう。僕は戦後の日本を泳いできた縫いぐるみのような男なんです。野見山さんに出会ったこともそうだし、いろんな人の戦争への思いが、その僕の縫いぐるみの中に入って、この仕事をやらせたんじゃないかと思う」

 乾いた言葉とは裏腹に口ぶりは湿っていた。こんな葛藤があったから、窪島さんは画学生の作品に魅せられたのではないか。「無言館に入ると、シンとした気持ちになります。ひた向きなんです。よそ見をしていない」。そう目に涙をためて語った。

 窪島さんは一昨年末、くも膜下出血で倒れた。「二十六時間後に目が覚めた時、自分の残り時間に優先順位を付けたら、やっぱり彼らの絵を守ることでした」

 全国から遺族が集って毎年六月に開いてきた無言忌は遺族の減少で今年が最後になった。入館者も開館九年目の十二万人弱をピークに右肩下がりになっている。戦後七十二年の風景は窪島さんには厳しく見えるのではないか。「金銭的にも毎月綱渡りなんですけど、だけどねえ、中学生や高校生が見学に来ると反応がいいんです。絵の魅力が減ったとはちっとも思いませんから。彼らの絵は戦争を告発しているだけじゃない。戦後の僕たちの生き方も問うていると思うんです」。その声は明るく決意に満ちて聞こえた。 (森本智之)

 

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