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【土曜訪問】

終わりなき旅だから 「銀河鉄道999」新作発表 松本零士さん(漫画家)

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 壮大な宇宙を舞台にSF漫画の傑作を生み出してきた松本零士さん。八十歳を迎えたいまも旺盛な執筆意欲は変わらない。その原点は、敗戦を経験した少年時代にあった。

 「おやじの影響はかなり強いですね」

 父は陸軍少佐、航空隊のパイロットだった。多くの部下を率いてフィリピンへ出撃。終戦の二年後、無事に帰国したが、戦地で多くの部下を失ったことを終生悩み続けた。

 「ある時、女性が訪ねてきましてね、あなたは帰ってきたのに、どうしてせがれを連れて帰ってくれなかったのかと、涙を流して問い詰めるわけです」

 「民間機のパイロットに」という誘いもあったが、二度と操縦かんを握ることはなかった。「だから極貧でね。路上で八百屋をやりながら、ボロ長屋に住んで」

 「人は死ぬために生まれてきたのではない。生きるために生まれてきたのだ」と父は繰り返した。この言葉は、後に『宇宙戦艦ヤマト』のテーマになる。海上特攻で散った戦艦大和がモチーフ。だが、生きて帰る船として描くことにこだわった。艦長の沖田十三は父がモデルである。

 宇宙への憧れも、その父がくれた。「南方の夜間飛行は星の海を飛ぶようだ」という言葉に松本少年は胸を躍らせた。天文学者の荒木俊馬(としま)が子供向けに書いた『大宇宙の旅』を古本屋で手に入れ、むさぼるように読んだ。

 「大学で機械工学を学び、将来はロケットを造りたい」。夢を見たが、家計が許さなかった。代わりに選んだのが漫画家だった。

 戦後、家族が暮らしたのは北九州・小倉。朝鮮戦争が始まると、街は米軍の兵士らであふれた。持ち込まれたコミック本でディズニーなどに触れたのが下地になった。

 十六歳でデビュー。高校三年間は地元の毎日小学生新聞西部版で連載を持ち、原稿料は学費や生活費に充てた。

 卒業後、「何もかも質屋に入れ」手にした片道切符で東京を目指した。「漫画家になるまで死んでも帰らないという気持ち」。夢を懸け少年が宇宙を旅する『銀河鉄道999』はこの時の決意が根底にある。「自分の気持ちをそっくり描いた。タイトルには、未完成という意味を込めました」

 まず少女漫画で頭角を現した。その間も宇宙への憧れはうせなかった。当時暮らしたのは東京・本郷の下宿屋。時間を見つけて目の前の東大で研究室をのぞいた。出会ったのは「日本のロケット開発の父」といわれた糸川英夫さんだ。「『許可も取らずに何だ』って、最初は怒られたけど『好きなんです』って正直に話したら『分かった』と。いろんなことを教えてくださいました」。交流は糸川さんが亡くなるまで続き、その経験は創作に生きた。

 こうして多くのSF漫画を手掛けた松本さんの功績は、アニメの裾野を広げたことにもある。「漫画映画」と呼ばれ子供の娯楽でしかなかった一九八〇年前後、アニメ化された松本作品は大人も巻き込んで日本中を席巻した。

 特にアニメ志向が強かった手塚治虫さん、石ノ森章太郎さんとは上京直後から交流。「自称日本三大アニメマニア」を名乗り、映写機やフィルムを買ったりして、研究に没頭した。国産初のテレビアニメは手塚さんの『鉄腕アトム』(六三年)だ。映写機が壊れて編集作業が滞った時には、「古道具屋で買ったオンボロ映写機」をスタジオに急きょ運んで、ピンチを救った。

 こうして志を同じくした仲間たちの多くは既にない。だが、松本さんは若手のころから変わらず、深夜三時ごろまでペンを握る夜型のスタイルで、今月には『999』の新作を発表した。そのエネルギーの秘訣(ひけつ)を問うと「『999』と同じ、漫画を描くのは、終わりなき旅ですから」と笑った。 (森本智之)

 

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