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【土曜訪問】

彫刻家の感性、端々に 薬師如来坐像を制作指揮 籔内佐斗司さん(東京芸大大学院教授)

薬師如来坐像(後方)の完成を喜ぶ籔内佐斗司さん=福島県磐梯町の史跡慧日寺跡金堂で

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 福島県の霊峰磐梯山(ばんだいさん)の麓に、平安時代の初め、奈良で学んだ高僧・徳一(とくいつ)が創建した慧日寺(えにちじ)という大寺があった。今は国の史跡となり、金堂などが復元されているが、今年七月三十日、ここにかつて本尊として安置されていた薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)がよみがえった。手掛けたのは東京芸術大大学院の保存修復彫刻研究室。教員OBも含む総勢約三十人が、像高一・九メートル、台座や光背を含めた総高は四・一メートルにもなる大作を三年がかりで仕上げた。制作指揮を執ったのが教授の籔内佐斗司(やぶうちさとし)さん(65)だ。

 研究室を率いて十四年。「こんなに大きなものは私個人も研究室でも作ったことはなかった。感慨無量」と除幕式で笑顔を見せた。造立以来、何度も罹災(りさい)し、当初の姿が分からない中、籔内さんを含む五人の検討専門委員会が、奈良時代から平安初期の作例を検討してその姿を模索した。制作できたのは「学術じゃなく芸術だから。学術は実証できないことはやってはいけない。でも、芸術は感性で作る仕事だから」。言葉の端々に彫刻家としての自負がにじむ。

 籔内さんは同大学で彫刻を学び、大学院も修了。「仏像の修理でもしていれば食べていけるかも…」と生活のために同じ大学院の保存修復技術研究室に入り直し、助手になった経緯がある。バブル経済が助走を始めた一九八七年に彫刻家としてやっていけるめどが立って研究室を去った。

 彫刻家として生み出した作品は人体や動物など。「自分が作りたいものより人に喜んでもらえるものを作りたかった」。代名詞となったのが童子(どうじ)だ。「童子はエネルギー。気や精霊、魂(たま)を具象化したものです」。子ども時代に大好きだった佐藤さとるさんの児童文学「コロボックル物語」や手塚治虫さんの漫画「鉄腕アトム」への憧れが根っこにあった。童子から派生したのが奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」だ。

 芸大に保存修復彫刻研究室の教授として戻ったのは、日本を代表する彫刻賞の平櫛田中(ひらくしでんちゅう)賞を取った翌年二〇〇四年。大学が独立行政法人になり、教授が公募制になったことで関係者に勧められて志願した。「仏像は好きだったし、自分の中で不完全燃焼で終わっていた気持ちがあった」。彫刻家も仏像の修復も別の道ではない。「私たちは実技者としての立場から文化財の修復にアプローチしている。仏像が作れなくて、仏像の修復などしてはだめですよ」

籔内佐斗司作《昇龍童子》 2017年、高さ42センチ 遠藤桂撮影

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 籔内さんの著作の中に<芸術表現は変容はしても進化はしない>という記述がある。修復で向き合う昔の仏像の技に舌を巻くことは「しょっちゅうある」。「先人の業績に対するリスペクト(尊敬)は必要だし、それのない人が修復をやってはいけない」

 影響を受けた彫刻家は、平等院鳳凰堂(ほうおうどう)の国宝・阿弥陀(あみだ)如来坐像を生んだ平安時代の仏師・定朝(じょうちょう)と、東大寺南大門の同・金剛力士立像(こんごうりきしりゅうぞう)を手掛けた鎌倉時代の仏師・運慶。「彫刻家としても素晴らしいが(工房を率いた)組織経営者として非常に優れた人たちだと思う」。自身も今、研究室という“工房”を束ねる“棟梁(とうりょう)”の身だ。「薬師如来も私たちが作ったのは八分。後の二分はこれから見る人たちが作っていく。人々に愛されて暮らしの中に取り入れられて、彫刻としての命がここから始まります」 (矢島智子)

 

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