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【土曜訪問】

教えの土台を考えよ 「無常」に注目し仏教史を追う 南直哉さん(僧侶)

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 今年の小林秀雄賞(新潮文芸振興会主催)に決まった曹洞宗僧侶の南直哉(じきさい)さん(60)の『超越と実存』(新潮社)は、仏教界への問題提起の書だ。仏教の開祖ブッダが説いた「無常」の教えに注目しながら仏教史を追い、変貌した日本仏教の存在意義を問う。「私の思想遍歴の総括です」と語る。

<一、死とは何か

 二、私が私である根拠は何か>

 本書の冒頭、南さんはこの二つの問題に長い間取りつかれてきたと告白する。

 書名にある「超越」とは、人間はなぜ生まれ、死んでいくのかという問題に解答を与える存在や理念のこと。例えば、一神教の神や真理だという。

 「どうせ死ぬのに、生きていることに安心を与えてくれるのが、超越的な存在や理念だと思う。人間は、分からない死というものを、分かったことにしたがるわけです」と話す。

 これに対してブッダは、あらゆる存在は絶えず変化しており、確かなものはないと、「無常」を説いた。人間の苦しみを生む物欲や自己愛は、そもそも根拠が無いというのだ。この立場からは「超越」も認められない。「超越」抜きで人間の悩みと向き合う−それが仏教の独自性だと南さんは考える。

 ともすれば日本人には、一神教の神さまも仏教の仏さまも違いがないように思える。ブッダの教えが歴史を追って変化したからだろう。本書は、仏教の中に「超越」が浸透していく経過と、無常の立場からそれを退けようとした僧侶たちの試行錯誤を描いている。

 南さんは三歳のときから重症の小児ぜんそくに苦しんだ。「常に死が間近にありました。絶息が続いたそのあとに、何が来るのか知りたかった」。死について大人に尋ねても、納得できる答えは得られなかった。

 長野市の善光寺の近くに生まれ育ったが、仏教の思想との出会いは中学時代に読んだ「平家物語」だった。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という冒頭のくだり。「人は理由なく生まれ、意味なく死んでゆく−。そういうことを言っていると思いました。強烈な共感を覚えました」

 その後も、生と死について問い続けることはやめなかった。「だって考えちゃうんだもの。それは今も同じ。結論は出なくていいと思っています」。高校、大学時代に宗教や哲学の本を読みあさった。就職後に出家得度。曹洞宗大本山の永平寺(福井県)で十九年間、修行を続けた。

 座禅に打ち込んだ「副産物」が、本書だという。「座禅は、言語によって構成されている人間のものの見方を一挙に相対化してくれた」。なぜ、仏教には無常の教えがあるのにもかかわらず、繰り返し「超越」が説かれてきたのか−。参禅する中で、言語のせいではないかという思いが強まった。

 仏教で語られる「超越」は、仏さまたちばかりを指すのではない。例えば「無常」という言葉が発せられた瞬間、「無常」は具体的な何かを指し示す言葉のように感じられてしまう。それが仏教の最高の教えだと説明されれば、無常の言葉も「超越」になりえる。

 南さんは鎌倉時代を生きた道元を、こうした言語の問題を乗り越えた人物の一人だと位置付けた。自身が属する曹洞宗の開祖だ。「思い切った言い方をして他の宗派の方には失礼かなとは思うんです」と語りつつ、「どの教団のお坊さんであれ、なぜその教えの中にいるのか、なぜキリスト教じゃなくて仏教なのか、しっかり土台を考える時期に来ている」と力を込める。

 貨幣経済が発達したブッダの時代と、武家に政権が移った鎌倉時代、そして現代の社会は似ているというのが、南さんの認識だ。「みな、大きな転換点だった。自分の生き方を考え、問題を解決しようと仏教を求める人は、これからどんどん出てくるでしょう」

 ただ、核家族化や少子高齢化を背景に、これまで伝統教団を支えてきた寺と家との関係は崩れつつある。「今後は僧侶と個人とが関係を結ぶ時代になっていく。お坊さん一人一人が、責任を持って対応できるようにならないといけないんです」 (小佐野慧太)

 

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