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【土曜訪問】

感性呼び覚まされて 石川・珠洲で自給自足 渡辺キャロラインさん(陶芸家)

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 日本海に突き出した能登半島。その先端、石川県珠洲(すず)市の小さな集落に、米国人の女性が長年暮らしている。地元の伝統工芸である珠洲焼をつくり、英会話を教え、自給自足の生活を送っているという。なぜ日本へ−? 自宅を訪ねた。

 能登空港から車で約一時間。山あいに、納屋を改築したという古い民家が見えてきた。「ようこそ」と現れた細身の女性が、渡辺キャロラインさん(53)。家の扉を開けると、大きな窓から山の緑が目に飛び込んだ。洗練された室内には野草が飾られ、バッハの無伴奏チェロ組曲が流れる。なんと「この土地に住んで三十年以上になる」という。

 卓上には採れたてのキュウリ。驚くほどみずみずしい。「一日たつと味が落ちるから鶏にあげちゃう」

 料理を載せた黒灰色の器は、自作の珠洲焼という。室町時代にかけて隆盛を誇り、突然途絶えた中世の焼き物で、一九七〇年代に伝統工芸として復活した。鉄分の多い地元の土を使い、釉薬(ゆうやく)を使わずに焼く。石と鉄が混じったような風合いを持つ。「ダンナが亡くなって窯(かま)が残って。初めて自分もやるようになったの」

 口で言うほど簡単ではない。薪(まき)を燃やす窯焼きには一回に十五トンの薪を使う。チェーンソーで木を切断した後に機械で細かくし、一〜二年乾かす。その重労働を、すべて自力でこなす。

 コロンビア大で日本文学を専攻していた学生時代、米国滞在中だった渡辺幸治(ゆきはる)さんと出会い、恋に落ちた。幸治さんは日本に帰ると珠洲焼に惚(ほ)れ込み、陶工を志して大阪から珠洲市へ移住。キャロラインさんは「こっちに来ないか」と誘われ、八七年に来日した。

 鮮やかに思い出すのは、今は廃線となった珠洲駅に降り立った時のこと。東京から鈍行列車で十時間以上。「とっぷり日が暮れて。どこに来てしまったんだろうと、心細かった」。そして「寒くて暗いボロ家暮らし」がスタート。「朝起きると枕に雪が積もっていたりした」。幸治さんの焼き物は当初ほとんど売れず、キャロラインさんが英会話講師をして生計を支えた。

 移住して間もなく珠洲市では原発計画が持ち上がり、漁師や女性らの反対運動が起きた。抗議の座り込みにも参加し、地元の人々と関係を築いていった。

 長男飛生(ひゅう)さんが生まれたのは二十八歳の時。ところが翌年、幸治さんの胃がんが発覚した。手術したが食道に転移。四歳の子を残して四十六歳で亡くなった。

 生前、幸治さんから「ここの自然は厳しい。アメリカに戻った方がいい」と助言されていた。でも、日本に残ることを選んだ。

 「息子に故郷をつくりたかった。私は珠洲に来るまで、同じ場所で四年以上暮らしたことがなかったから」。両親は宣教師で、世界各地を転々としていた。キャロラインさんは米国・ニュージャージー州で生まれ、二歳からブラジルへ。高校は米国だったが生徒が多国籍だったので、日本語以外にポルトガル語やフランス語など五カ国語を操る。

 二十五歳になった長男は中学から米国で進学し、大学卒業後は米国で働く。「時々は彼女を連れて帰国するから、寂しくない」

 取材に来た人に「優雅な田舎暮らし」と言われたことがある。キャロラインさんは「とんでもない」と大笑いする。米や野菜を育て、鶏を飼い、蜂蜜を採る。冬は雪かきに汗を流し、夏はひたすら草刈りをする。

 なぜ日々の労働が苦にならないのだろう。原点にあるのは、ブラジルの田舎で暮らした幼少体験だという。自分で牛の乳を搾り、鶏をつぶし、はだしで馬を乗り回した。「自然の中で体を動かすのが、とにかく楽しくてたまらなかった」

 自給自足で完結した、美しい世界。「キャロラインの生活自体が芸術」と評した人もいた。「ここは何もないからいい。本来の感性を、自然が呼び覚ましてくれる。この生活ができるなら、世界のどこであってもいいと思っています」 (出田阿生)

 

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