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【土曜訪問】

「生きる」を肯定したい 初の小説『ハラスメントゲーム』刊行 井上由美子さん(脚本家)

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 俳優の唐沢寿明さんと江口洋介さんが対照的な医師を演じた山崎豊子原作のドラマ「白い巨塔」(二〇〇三〜〇四年、フジテレビ系)。女優上戸彩さんの主演で主婦の不倫を描いたドラマ「昼顔〜平日午後3時の恋人たち〜」(一四年、同)…。数多くの人気テレビドラマを生み出してきた脚本家の井上由美子さん(57)が初の小説『ハラスメントゲーム』(河出書房新社)を刊行した。小説を基に脚本も手掛けた連続ドラマがテレビ東京系で放送中だ。

 出版元の応接室で対面した井上さんに、直木賞作家の向田邦子や『終わった人』がベストセラーになった内館牧子さんに続く脚本家出身の作家を目指しているのですか−と尋ねると「そんなに大それたことは思っていないんです」と笑顔で一蹴された。それでも大物新人への注目度は高く、十社ほどの取材依頼が舞い込んでいるという。

 これまでドラマのノベライズも経験がない。編集者から「小説をやりませんか」と声を掛けられたのは六年前。書くことに制約のない小説に魅力は感じていた。「ドラマではコンプライアンス(法令順守)的な問題からやってはいけないことが増えていて、民放のドラマなら昔からスポンサーへの配慮で書けないことがあります。今は分かりやすいものが求められていて、ちょっと変わったことをやる実験的なドラマが減っています。自由に書ける場が欲しいなとは思っていました」

 それでも「小説はやっぱりすごく難しかったですよ」と振り返る。最初は何度も書き直した。「これって小説じゃないなって思って。(編集者に)読んでいただいて『これって小説ですか?』って聞いたこともあります」。映像にならなくても物語として存在するものは何か。「書き始めたときは小説でしかできないことをやろうと気負っていました。途中であまり気負ってもしょうがない、最後まで書くことを優先しよう」と割り切ってドラマ、小説の別なく楽しんでもらえる題材を選んだ。

 編集者には「もっと心情を描いた方がいい」とアドバイスされた。脚本は心情を一切書かないのがルール。「心情を書けるのが一瞬、怖かった。書いちゃっていいのかなと思った」と打ち明ける。「勉強しながら、五十代の新人としてやらせていただきました」と謙虚に語る。

 デビュー作は大手スーパーチェーンが舞台。本社でのパワーハラスメントが理由で地方の店長に飛ばされた主人公が、社長の密命を受けて本社のコンプライアンス室長に就任。社内で起きるさまざまなハラスメント事件の解決に奔走する。ハラスメントは企業が今、神経をとがらせる問題のひとつだけに、テーマ選びの嗅覚の鋭さに感心する。

 作中、主人公の秋津渉(わたる)が裏切りによる左遷の失意から東京湾で入水(じゅすい)自殺を図る場面がある。海中で死に直面した瞬間、秋津は<どんな仕事でもいいから、また働きたい>と強く願う。「苦しいけれど職場は自分の力を試す場であり人と出会う最高の場所。人は何かを作り上げる場にいたいんだといつも思うから」とその心理を説明する。「働く場所って人間のドラマが詰まった一番生々しい場所ですよね」。悲劇であれ喜劇であれ「読者が生きていることを肯定できるようなものを書きたい」という。

 神戸市の生まれ。十歳で入院した小児病棟で、娯楽室のテレビや本に親しみ「物語が人を助ける」ことを実感した。「それにかかわる仕事をしたい」と思った。立命館大学では中国文学を専攻。漢文が好きで卒業論文では「竹林の七賢」の一人、阮籍(げんせき)を取り上げた。卒業後はドラマづくりを夢見てテレビ東京に就職するもかなわず、三年で退職。シナリオの勉強を始め、九一年に脚本家デビューした。以来二十七年。描いてきたドラマは平成という時代の象徴でもある。この先の夢を問うと「書いていたい」とシンプルに答えた。

 話を聞いた応接室の窓からは、巨大な新国立競技場の建設現場が見えた。これが完成する新しい時代に、井上さんはどんな作品を書いているのだろう、とふと思った。 (矢島智子)

 

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