東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 文化 > 土曜訪問一覧 > 記事

ここから本文

【土曜訪問】

打ち続ける、力の限り 囲碁公式戦通算1400勝 小林光一さん(名誉棋聖)

写真

 コツコツと地道に歩み続けてきた棋士人生−。囲碁の小林光一名誉棋聖(66)からは、こんなイメージが真っ先に浮かぶ。昨年十二月、国内囲碁界では趙治勲(ちょうちくん)名誉名人(62)、林海峰(りんかいほう)名誉天元(76)に続いて史上三人目となる公式戦通算千四百勝を達成した。小学校卒業後に北海道旭川市から上京、昭和囲碁界の大御所・木谷実(みのる)九段(故人)の自宅兼道場で内弟子生活を始めてから五十余年。通算対局数も二千を超え、「はるかなる道のりです」と述懐する。

 石田芳夫二十四世本因坊(70)、加藤正夫名誉王座(故人)ら数々の俊英が集っていた東京・四谷の木谷道場。一九六五年の入門時に唯一、年下の内弟子が趙名誉名人だった。「四歳も下の子供相手に、黒番で打つように言われて、がくぜんとした記憶があります」と苦笑交じりに振り返る。しかし、対局で実力差を思い知らされる。年下から受けた“屈辱”を発奮材料に修業を続け、入門から二年足らずで入段し、晴れてプロ棋士に。趙名誉名人より一年早かった。

 入門の約一年前、師匠は二度目の脳出血に見舞われて一週間意識不明となるなど、体調は芳しくなかったという。「大変な状況なのに、よく入門を許してくれたと思う。木谷道場に入ってなければプロになっていたかどうか…。感謝あるのみです」

 長い棋士人生の中で「大きな転機」となったのが、初挑戦した一九八五年の第十期名人戦。前年に五連覇を達成し、棋聖も連覇していた趙名誉名人から四勝三敗でタイトルを奪取した。新聞の観戦記には「趙が投了したあと、小林はしばらく黙ってうつむいていた。涙がポロポロほおを流れ落ちた」とある。「趙さんの天下でしたからね。達成感が大きく、視界が一気に開けた感じでした」

 翌八六年には棋聖位も趙名誉名人から奪い八連覇。加藤名誉王座に奪われた名人位も八八年から七連覇し、小林時代を築いた。

 趙名誉名人とは歴代最多の百二十九局打ち、六十三勝六十六敗。「趙さんの碁は気になり、棋譜はよく見ます。若い人がどんどん出てきたけど、頑張ってますね」と賛辞を贈り、「今はもう戦友のような感じ」としみじみ語る。

 九六年、先妻禮子さんを病で失った。師匠の三女で、自身も六段(死後、七段を追贈)のプロ棋士として活躍したが、結婚後は夫を陰で支える役回りに徹した。「負けた時でも、禮子の明るさが癒やしになっていた。あの時は本当に参りました。成績も相当落ち込みましたよ」

 しかし、師匠から続く囲碁の血筋は長女の小林泉美(いづみ)六段に受け継がれた。母禮子さん同様、家庭を守り、夫の張栩(ちょうう)名人を支えている。夫婦の二人の娘もプロ棋士志望。「四代まではいきそうな感じですね」と柔和な表情を浮かべる。

 今回の取材で、ほぼ半世紀ぶりに記者が再会した小林名誉棋聖。木谷道場で寝食をともにした兄弟子である。明るく温厚な人柄。登校前、詰め襟の学生服姿で棋譜を手に、背筋を伸ばして碁盤に向かっていた姿が目に浮かぶ。幕末に活躍し、今も碁聖と仰がれる天才棋士「本因坊秀策」の棋譜を特に好んで並べていたという。

 「一番自分の感覚にしっくりきたので、棋譜を何度も何度も並べ直して勉強しました」と明かす。黙々と続けた努力で着々と根を張り、見事に咲かせた大輪の花。七大タイトル通算三十五期は歴代三位で、名誉名人、名誉碁聖でもある。

 毎朝、AI(人工知能)の棋譜をパソコン上で並べるなど、今も研究に余念がない。昨年、紫綬褒章を受章。国際シニア棋戦の第一回国際囲棋大師戦で優勝した。

 「くめども尽きぬ奥深さが囲碁にはあり、打っている時の緊張感もたまらない。厳しい世界ですけどね…体力が続く限り、打ち続けたい」 (安田信博)

天元戦での趙治勲九段(左)。右は小林光一天元(いずれも当時)=1987年、札幌市で

写真
 

この記事を印刷する

東京新聞の購読はこちら 【1週間ためしよみ】 【電子版】 【電子版学割】

PR情報