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【考える広場】

「不要な存在」になる不安 大西隆編集委員が聞く

◆頼る仲間広げ連帯を 東大先端科学技術研究センター准教授・熊谷晋一郎さん

インタビューに答える東大の熊谷晋一郎准教授=1日、東京都目黒区駒場で

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 障害者四十六人が殺傷された相模原事件からおよそ五カ月。障害とは無縁の人々の間では、記憶の風化が加速しているようにも映ります。けれども、内心では、事件が突きつけた「優生思想」におびえているのではないでしょうか。脳性まひ当事者でもある熊谷晋一郎・東京大先端科学技術研究センター准教授と、現代社会の諸相を考えます。

 <大西> 事件は、優秀な人のみに生きる価値があるという優生思想のおぞましさを広めました。でも、精神障害者が知的障害者施設を襲ったという構図に閉じ込められて、健常者にとっては人ごとという空気を生んでいるような気がします。

 <熊谷> ちょっと角度を変えて見ると、障害の有無にかかわらず、現代人は「自分は明日から不要とされないか、用無しとされないか」という不安を抱えている時代だと思うのです。それが右肩上がりに強まっている。

 例えば高度成長のころは、マニュアル通りに黙々と働く人が健常者のかがみでした。しかし、テクノロジーが進み、そういう労働は機械化された。黙々と働く人は頑固で融通が利かない、コミュニケーション能力がない、創造性がない障害者として扱われるようになってしまった。

 自閉症と診断される人が三十年間で二十倍ぐらいに増えています。ところが、三十年前の診断基準で調べたら、全く増えていなかったという研究結果がある。つまり社会変動によって障害の定義が広がり、病理化された。昔は問題のなかった人が現代では問題視されるのです。

 <大西> コミュニケーション障害は「コミュ障」と呼ばれ、子どものいじめさえ招いている。

 <熊谷> そうですね。人工知能(AI)やロボットが人間に取って代わるという未来予測とか、社会の求める能力基準の移り変わりを背景にしながら、多くの人々が「自分は障害者になるかもしれない」と戦々恐々としている。優生思想的な考えは障害者のみならず、大多数の人々を苦しめているといえます。

 <大西> 排外主義的なドナルド・トランプさんが新大統領に選ばれた米国や、欧州連合から離脱する英国。大陸では極右勢力が台頭している。日本特有の傾向ではなさそうですね。

 <熊谷> トランプさんの当選について、上院議員バーニー・サンダースさんは演説で、没落しつつある中産階級の不安をうまく利用したと表現していました。慶応大の財政学者、井手英策さんは、日本では年収八百万円の層が最も保守的との知見を教えてくれました。まさに恵まれているはずの中間層が見えない不安にさいなまれている。

 今や人類は分岐点に立たされていると思うのです。より障害化させられた弱い立場の人々を排除して、自分の価値を高めようとする排他主義的な社会に向かうのか。それとも、不要とされる不安を共有する仲間と連帯して、能力の優劣とは無関係に生きていける社会に向かうのか。どっちにかじを切るか。

 願わくば、連帯の方に持っていきたい。それは分配の仕方と絡んでくるでしょう。生産能力に応じて資源を与えるという貢献原則ではなく、生きることそのものに対して無条件で資源を与えるという必要原則をもっと考えなくてはいけない。社会的に有用かどうかが問われない分配の仕組みです。反優生思想とか分配の問題は、中間層にとってこそ重要かもしれない。

 <大西> 成長なくして分配なしという掛け声の下、国家的には「一億総活躍」が提唱され、障害者をふくめて、稼ぐ力を称揚する風潮が強い。能力主義がさらに勢いを増しています。

 <熊谷> 障害者もこんな能力を発揮できるというレトリックがはびこるたびに怖くなる。パラリンピックに感動するのも同じ文脈でしょう。もちろん、私たちは近代的価値の中で生きているから、潜在能力を開発するための配慮や支援は欠かせません。でも、それは車の両輪の一つ。もう一つ大切なのは、社会の役立たずでも生きていて良いという思想と分配制度です。

 重要な問いの立て方としては、個人の尊厳をどう守るか。尊厳とは暴力を受けない権利、意思を踏みにじられない権利です。社会的有用性と、生きて良いという尊厳をつなげてはならない。そこをきちんと主張していかないと、事件の一番大事な問題には届かない。能力開発とか自己実現でなく、尊厳からスタートするべきだと思います。

 <大西> 優生思想的な発想を支持する言説も目立ち、暴力の多発が憂慮される時代です。

 <熊谷> 今度の事件で明らかになったのは、頼れる先、依存先が少ない人々は暴力に巻き込まれやすいということです。被害者にも、加害者にもなる。

 私もそうですが、お風呂に入ったり、服を着替えたりするときは、介助者に依存する必要があります。暴力を振るわれたら太刀打ちできない。そのときには、その人を切ることができるように、多くの介助者を確保しておかなければいけない。

 しかし、施設では介助者よりも障害者の方が多く、暴力が常態化するリスクが高い。障害者運動が施設や家族という限られた相手に頼るのではなく、地域での暮らしにこだわってきた理由の一つも、そこにある。

 <大西> 加害者にもなると。

 <熊谷> 人はどんな状況に陥ると、暴力的になるかという研究があります。暴力と犯罪との関連では三つのことがいわれている。一つ目は、反社会的な態度。人命や財産を軽んじる思考や行動のパターンを持つ人。二つ目は、労働や教育、余暇活動といった場から締め出されたような社会的に排除された人。三つ目は、薬物依存の影響です。

 依存症者の多くはむしろ暴力被害経験があり、他人を信用することが難しい。トラウマ(心的外傷)の中で、自分を裏切らない物質に頼ってしまう。薬物以外に依存できない病気です。社会的排除はずばり依存先を奪うことだし、反社会的態度もトラウマや排除との関連がいわれる。すべて依存先の少なさという点で共通しているのです。

 <大西> 事件の容疑者は施設の職員でした。大麻を使用していたと伝えられています。

 <熊谷> 隔離された施設の職員も、人手不足の中でぎりぎりの労働を強いられ、逃げ場はないでしょう。危険な人ほど関わりが必要なのに、容疑者は精神医療に囲い込まれてしまった。とすると、本当の加害者はだれだったのか。一部の人を排除して、依存先を奪った地域社会といえるのではないでしょうか。

 暴力に巻き込まれないためには、依存先を分散することが大事です。人類というのは相互依存ネットワークをつくり、個体の弱さを補ってきた。ただ、社会が健常者向けにデザインされて、障害があると依存先が一カ所に集中しがちなのです。

 <大西> いつ「障害者」になるかもしれないと恐れている健常者も、不安を共有する依存先を増やしておくべきですね。

 <熊谷> 他人に頼らない自立とか自己決定といった近代的な価値には、能力主義が組み込まれています。だから障害が重いか軽いかによって、障害者さえも序列化されるという優生思想的な問題が出てきてしまう。

 私はかねて、自立とは依存先の分散であると考えてきました。分散すれば選択肢も広がります。人間は多くの人やものに薄く、広く依存しなければ生きていけない。障害の有無を超えて多くの人々が依存し、連帯できる社会づくりが望まれます。

 (編集委員・大西隆)

 <くまがや・しんいちろう> 1977年、山口県生まれ。小児科医。東京大卒。専門分野は、障害や病気のある本人が、仲間の力を借りて、自らの生きづらさを探究する「当事者研究」。著書に「リハビリの夜」(医学書院、新潮ドキュメント賞受賞)など。

 <貢献原則と必要原則> 公正な所得分配の在り方を考えるときの基本原理。貢献原則は個人の功績に応じて分配するという考え方。障害者や病者、失業者らは排除されやすい。対して、個人のニーズに応じて分配するという考え方が必要原則。社会保障制度の根拠となる。個人の能力や努力とは無関係なので、経済効率は損なわれがちになる。

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