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【考える広場】

文庫本の世界

 今ある形の文庫本を定着させた岩波文庫が創刊されてから今年で九十年になる。定評ある名著・秀作が安価に読めるとして、文庫は読書の入り口にもなり、出版各社がさまざまな内容、形式で発刊してきた。その魅力や歴史、文化的意義をひもといてみよう。 

 <文庫本>  日本で最も古い文庫本シリーズは1903年に冨山房(ふざんぼう)が刊行した「袖珍(しゅうちん)名著文庫」。27年に創刊された「岩波文庫」によって文庫本は「名著の普及版」として定着した。その後、各社が参入し、収録作品はミステリーなどの娯楽作品が中心に。最近では書き下ろしも増えている。出版科学研究所によると、2015年の文庫本の販売部数は1億7572万部。14年の消費税増税以降、不振が続く。

◆読者の知識の基盤に 女優・作家 中江有里さん

中江有里さん

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 文庫を買い始めたのは高校一年のころです。芸能界にデビューするために大阪から一人で上京。お金がないので、安価な文庫は手を出しやすかった。お金がない時はタイトルから内容を想像して楽しんだりも。

 文庫本のいいところは、好きになった作家がこれまで何を書いてきたのかがたどりやすいので、作品をさかのぼって読めることです。そうやって遠藤周作さんや宮本輝さんらの作品を次々読んでいきました。

 単行本から文庫本になるのにかつては二、三年かかりましたが、最近は文庫になるのが早くなりました。早いと半年です。これを「文庫落ち」と表現する方がいますが、再び読まれる機会を得たのですから「文庫上がり」と呼びたい。それに文庫は小さくなって、安価になるだけでないお得があります。

 一つは、単行本とは本文が微妙に変わっていることがあり、改訂版として読めること。それに私もよく書かせていただくんですが、文庫本には解説が付くことが多いんですね。これが面白い。プロの批評家や学者ではない俳優や書店員など、意外な方が書かれていたりする。人の読み方って本当に予想外で、参考になるんですね。解説はある程度長い文章なので、その方の思いが出る。私も解説を書くときは、ある種のラブレターを書くような気持ちで臨みます。

 文庫は読み継がれるのに堪える作品の集成です。いわば私たちの知識の基本になるものです。一方で、作家にとっては、文庫の売り上げが大きな収入源になっていて、それによって作家活動が続けられるといいます。つまり知識を支え、作家を支える基盤なんですね。だから若い人たちに手に取ってもらい、この基盤を守っていかないと。

 「若者の活字離れ」といいますが、若者はSNS(会員制交流サイト)で膨大な言葉を読み書きしていて、文章や言葉から離れたとは思いません。ただ、長い文章の読み書きが苦手な人は増えている。

 すぐ分かることはすぐに忘れます。文庫本の解説ではないですが、ある程度長い文章でないと伝わらないことがある。書くことによって自分の考えも整理できる。集中力、読解力も身につきます。それには読書力、読書神経を鍛えるのが一番。普段から、文庫本を身近に置いて長いものを読んでほしいですね。

 (聞き手・大森雅弥)

 <なかえ・ゆり> 1973年、大阪府生まれ。近著は『ホンのひととき』(PHP文芸文庫)。電子版文芸誌「yom yom(ヨムヨム)」で小説を連載中。11月に『わたしの本棚』(PHP研究所)刊行。

◆真の教養主義を育む 関西大東京センター長 竹内洋さん

竹内洋さん

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 日本では昭和の初めに大学の数が劇的に増えました。高等教育人口が三倍近くになったといわれます。この第一次の教養の大衆化に岩波文庫は連動していました。インテリだからではなく、インテリになるために岩波文庫を読んだのです。

 岩波文庫は外国文学と哲学で他社を圧倒していました。つまり外国語からの翻訳です。これが分からない訳が多かった。今から思うと翻訳に問題があったのですが、当時は自分の頭が悪いからだと思っていました。東京大などの立派そうな先生が訳していて、同じ訳でも他社のものとは違うと思われていたのです。一種のブランド主義です。

 今や、岩波文庫を頂点とする文庫本のヒエラルキー(階層)は完全になくなりました。十年ほど前に早川書房から出版された『今日の早川さん』(coco著)という漫画があります。各社の文庫が擬人化されているのですが、これを読むと、すべてがフラット(平面)化したことが分かります。つまり、読書のジャンルに序列はなく、高級文化、中間文化、大衆文化の区別もない。実際、芥川賞・直木賞より本屋大賞の方が影響力がある時代です。

 もともとこの序列はいかがわしいものだった。教養主義は教養のない人を糧にして栄えてきたのです。誰かと比べて、ちょっと自分の方が教養があるというだけで見下すところがありました。その点では、反知性主義が出てくるのも分からないではない。だって教養主義はある種の暴力だったのだから。反発があるのが当たり前です。

 こうして教養主義が崩壊した今こそ真の教養主義の可能性があるといえると思います。例えば、ここ数年、いろんな文庫から名作の新訳が出ています。岩波文庫の権威主義がなくなって、人を見下すため、格好付けるための読書ではなく、しみじみ楽しむための読書、本物の教養主義が出てきた気がします。

 昔の人は今より活字に触れていたといいますが、その出発点には人との触れ合いがあったことを忘れてはなりません。先輩から勧められたり、本を読まないと同級生と話ができなかったりというのが読むきっかけになった。そういうインフラとなる人間関係、公共圏と呼ばれるようなものが必要なのです。それは、今求められている熟議民主主義をも形作ると思います。

 (聞き手・大森雅弥)

 <たけうち・よう> 1942年、東京都生まれ。京都大・関西大名誉教授。専門は教育社会学・歴史社会学。『日本のメリトクラシー』『教養主義の没落』『学歴貴族の栄光と挫折』など著書多数。

◆知的渇望を満たして ちくさ正文館書店本店店長 古田一晴さん

古田一晴さん

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 今は文庫本を含め本があふれ、選択肢が多すぎる時代です。これでは読者は読みたい本にたどり着けない。その結果、選ぶことを放棄して、例えば本屋大賞の一位だけが売れる現象が起きています。本を選ぶ能力が落ちている。いつからこうなったのか。文庫本の歴史をひもといてみると分かります。

 一九六〇年代までは、岩波文庫に代表されるように老舗出版社が選び抜いた古典を定価を抑えて出版していました。例えば、岩波書店が出版する文庫は当時、月四点ほど。読者が出版物を把握でき、心待ちにして毎月買っていく。ゆっくり長く売れていったのですね。

 それが七〇年代にターニングポイントを迎えます。枝分かれ、細分化の始まりです。角川文庫は原作本を映画化する方法で大当たりし、文庫がエンターテインメント性を帯びます。一方で、本格的な学術本をラインアップした講談社学術文庫やSFを題材にしたサンリオSF文庫の創刊など多様化していく。何でもありの時代に入り、その延長線上に今があります。

 九〇年代には大型書店が増えたことで出版社による棚取り合戦が始まります。文庫を含む年間の出版点数が四万点を超えました。七〇年代の実に二倍です。そのまま点数は増え続け、今は年間八万点。こうなるともう読者は選びきれない。こんなことを続けていても書店、出版社、読者にとって不幸です。

 そんな中、岩波書店もラテンアメリカ文学や現代詩をラインアップに加えるなど時代に合わせて変化してきました。『茨木のり子詩集』や『山之口貘詩集』など大衆に愛された詩人の作品を文庫化し、ハードルは低いけど、質は高い。

 一つ印象的なことがありました。岩波書店が岩波文庫五十周年を迎えた七七年、絶版本をリクエスト復刊しました。こんなに売れるのかというくらい売れた。まとめ買いされていくのです。その時に文庫本を担当していたのでよく覚えています。文庫が多様化した時代に入っても人は知を望んでいたのです。

 七〇年代に輝いていた岩波書店ですが、この光景が未来につながると思います。編集者が精査したものと垂れ流したものの差は歴然です。いつの時代にも読者は知を望んでいる。実直に良い作品を選び、世に出すしかありません。

 (聞き手・塚田真裕)

 <ふるた・かずはる> 1952年、愛知県生まれ。ちくさ正文館書店(名古屋市)に、アルバイトを経て78年に入社。棚作りの美しさで全国に知られるカリスマ書店員。著書に『名古屋とちくさ正文館』(論創社)。

 

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