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【考える広場】

100回目の夏 高校野球と日本人

 今年、全国高校野球選手権大会は百回目。地方大会が佳境で、甲子園は八月五日から。夏休み、終戦記念日、お盆などとともに真夏の風物詩だが、今年は酷暑が立ちはだかる。日本人にとって高校野球とは−。

 <全国高校野球選手権大会> 夏の高校野球。第1回は1915年。最多出場は北海の38回。以下、松商学園36回、龍谷大平安33回、早稲田実29回、中京大中京と天理、県岐阜商各28回−の順。最多優勝は中京大中京の7回。以下、広島商6回、松山商5回、PL学園と大阪桐蔭各4回−と続く。今回は100回記念で代表校は過去最多の56校。例年の北海道と東京に加え、埼玉、千葉、神奈川、愛知、大阪、兵庫、福岡の7府県でも2校出場。

◆敗者に値打ちがある 野球解説者・太田幸司さん

太田幸司さん

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 初めて甲子園のマウンドに立ったときは、膝ががくがく震えているのが自分でも分かりました。一九六八年、青森県立三沢高校二年の夏。それまで試合であんなに緊張した経験はありません。ところが、いざ投げてみると、いい球が行くんですよ。初戦は1安打完封勝ち。次の試合で負けたものの、確かな手応えをつかみ、来年も絶対に来るぞと心に誓いました。

 三年生になった翌年春の甲子園でも初戦は勝ったものの二回戦で敗退。夏は二回戦突破を目指していました。それを達成して肩の荷が下りたというのか、気が楽になって、それからは勝ち進むごとに調子が上がっていきました。

 そして松山商とのあの決勝戦です。三連投でしたが、体力的にまったく問題はありませんでした。それだけの練習をしていたからです。規定で延長十八回引き分け再試合になったのですが、前半の9回より延長に入ってからの方が調子は良かった。できれば、あのまま投げ続けさせてほしかったです。

 翌朝は全身がぱんぱんに張って、顔を洗おうとしても手が上がらないような状態です。球場に行くまで投げられるのかどうか不安でした。再試合で負けたとき、悔しさはなく、本当に爽やかな気分でした。やり尽くしたという満足感が、負けた悔しさを上回っていました。

 三沢は普通の公立高校でした。野球部も強くはなく、入学したとき、甲子園は夢のまた夢でした。それが目標に変わり、三回出場することができました。甲子園は野球人としても人間としても私をつくってくれた場所です。プロ野球選手にもなれましたし、甲子園があるからこそ今の自分があります。「甲子園のアイドル」なんて呼ばれたことも今はいい思い出です。

 ただ、高校球児の皆さんに言いたいのは、たとえ甲子園に出られなくても目標に向かって必死に頑張るプロセスが一番大事だということです。ベンチに入れず、スタンドから仲間を応援していても、そういうことに価値がある。甲子園に出る選手だけが注目されますが、そうではないんです。予選で負けていった選手たちの方が値打ちがあると私は思います。

 甲子園は勝者ではなく、敗者の美学の上に成り立っています。彼らの思いの積み重ねの上に百回目の大会があるんです。

 (聞き手・越智俊至)

 <おおた・こうじ> 1952年、青森県生まれ。同県立三沢高校のエースとして68年夏から甲子園に夏春3大会連続出場。69年のドラフト1位でプロ野球・近鉄バファローズ(当時)に入団。

◆大人が主役の「祭り」 スポーツ文化評論家・玉木正之さん

玉木正之さん

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 高校野球はここ十年あまり熱心には見てません。見る気にならない。あれは高校生のスポーツの大会ではない。一年で一番暑い季節と場所で、若者の動く姿を見て大人たちが喜ぶ。いわば「大甲子園祭り」です。

 スポーツライターの小林信也氏は百回記念で一回やめろとまで言います。あんなひどい環境の中で試合をやらせ、多くの投手の肩とひじを壊している。あれは野球とは言えないと。

 僕はそこまで過激ではありませんが、何度か改革案を書いてきました。一番の提案は監督も高校生に任せることです。野球の一番面白いところは作戦を考えること。その楽しさを生徒から奪ってはならない。

 大人が試合の現場に関わることは、高校野球の正常化も阻んでいる。生徒だけなら、勝つために投手に無理もさせるでしょう。そこで試合の外にいる大人たちが「やめろ」と言え、球数制限のルールもできる。今は大人が主役だから、自分の首を絞めるルールを作れない。結果として、異常な状態が続いている。

 その原点は東京朝日新聞が一九一一年に展開した「野球害毒論」にあります。四年後に大阪朝日新聞が高校野球の前身である中等学校野球大会を始め、野球は教育に役立つという「野球教育論」に転じたのです。

 スポーツは本来、生産的なものではない。長野冬季五輪で、原田(雅彦選手)が大ジャンプで金メダルを取る。「それがどうした?」と言われたら、何も意味はない。でも、だからこそ素晴らしい。ところが高校野球は、有意義な意味があるような幻想を振りまくからおかしくなる。

 サッカーJリーグが発足した時、当時の川淵三郎チェアマンは記者に「Jリーグをつくって何をするのか」と聞かれ、「サッカーします」と答えた。記者たちはきょとんとしましたが、僕は感銘を受けた。だって、日本の野球界は野球をせず、プロは親会社の宣伝をし、高校野球は教育をしてると言うんですから。

 高校野球を変えるには、何よりもメディアがジャーナリズムとしての意見を自由に言えないといけません。そのためには、メディアはスポーツを主催すべきではない。それはジャーナリズムを捨てること。メディアが地域で一つの核になり、何かを文化として推進することはあると思う。しかし、手助けの範囲を逸脱してはいけないと思います。

 (聞き手・大森雅弥)

 <たまき・まさゆき> 1952年、京都府生まれ。スポーツから音楽まで幅広く執筆活動を展開。『スポーツとは何か』『スポーツ解体新書』『ベートーヴェンの交響曲』など著書多数。

◆熱戦、平和だからこそ スポーツキャスター・長島三奈さん

長島三奈さん

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 高校野球の取材を始めたのは一九九八年に「熱闘甲子園」の担当になってからです。その年の六月、初めて取材に行ったのが栃木県の小山西(おやまにし)でした。春の県大会で優勝し、夏は甲子園初出場が期待されていましたが、県大会の三回戦でサヨナラ負け。甲子園に行くのはどんなに大変なことなのか、彼らの涙に教えられました。

 その経験があったので甲子園で開会式の入場行進をみたときは感動で涙が出ました。一度も負けずにここに来た選手たちは本当にすごいなと。二十年たった今でも忘れられません。

 九八年は松坂大輔投手のいた横浜が優勝した年です。準々決勝の横浜−PL学園戦は延長十七回の死闘の末、横浜が勝ちました。試合終了後、取材のため通路で待っていると、横浜の選手は泣きじゃくりながら帰ってきて、逆にPLの選手は爽やかな笑顔でした。勝者が泣き、敗者は笑顔。お互いにすべてを出し尽くしたという感じでした。

 準決勝の明徳義塾−横浜戦は横浜が逆転サヨナラ勝ち。その瞬間、守っていた明徳の選手たちがグラウンドに倒れ込んでしまいました。私は一瞬、映像が止まってしまったのかと思いました。敗者の姿にこんなにも心が揺さぶられるなんて…。高校野球を取材して初めて感じました。

 それ以来、毎年各地で取材をさせていただいていますが、長野県の東部高(現東御清翔(とうみせいしょう))も胸の中に残るチームです。二〇〇二年の秋、部員が五人になってしまったんですが、春に一年生が入部し、試合に出られることになりました。新チームになってからの目標は公式戦で1点を取ること、九回まで試合をすること。夏の県大会初戦は五回コールド負けでしたが、スクイズで1点を取りました。試合後、三人の三年生が泣きながら一年生たちに頭を下げていました。「一年生が入部してくれたおかげで試合に出られた。ありがとう」。仲間と野球ができることへの感謝。高校野球の原点を教えてくれたチームです。

 夏の大会は百回を迎えますが毎年当たり前のように開かれてきたわけではありません。戦争による中断もありました。高校野球の歴史は平和の歴史と切り離せません。平和だからこそ球児たちは好きな野球に打ち込めるし、私たちはそれを応援できます。その幸せを改めてかみしめる大会になればいいなと思います。

 (聞き手・越智俊至)

 <ながしま・みな> 1968年東京都生まれ。91年テレビ朝日に入りスポーツ記者。98〜2013年「熱闘甲子園」キャスター(00年を除く)。現在フリー。同局特番「野球が僕にくれたもの」などに出演。

 

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