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【一首のものがたり】

戦場の悲しみ奥歯で噛む

戦死者の遺骨を納めた魂魄の塔=右上=の前で、当時の様子を語る大城静子。遺骨だらけだった場所には今、畑が広がっていた=左上。左下は沖縄戦で避難する人々(沖縄県平和祈念資料館提供)

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◆杳杳と見渡すかぎりのされこうべ

蟻が棲みたりおおき黒蟻 大城静子

 西南の空から、轟音(ごうおん)が近づいてくる。「B29だぞ。防空壕(ぼうくうごう)へ走れ!」。一九四四(昭和十九)年十月十日早朝、那覇市近郊の真和志村(まわしそん)(現那覇市)にある楚辺(そべ)小学校二年だった大城静子(おおしろしずこ)(79)は、疎開先の伯父にせかされ、裏の防空壕へと駆けだした。

 B29の編隊が飛来し、那覇港や飛行場を襲う。空を覆う戦闘機グラマンが、爆弾の雨を降らせる。「黒い魚が落ちてくるようでした」。午後にかけての波状攻撃で、那覇市の九割が灰じんに帰した。

 伯父らと識名(しきな)森のガマ(洞窟)へ向かったが、着いてみると、避難民でいっぱいだった。ガジュマルの木の下で一夜を明かした。バナナ畑や墓に潜みながら逃避行を続け、最後は北部・今帰仁村(なきじんそん)の乙羽(うっぱ)山の麓に落ち着いた。

 安寧もつかの間、春になると異変が起きる。ある晩「ポン、ポン」という音が聞こえてきた。「特攻艇よ」と母が言った。近くの運天港には海軍の第二蛟龍(こうりゅう)隊などが配置されていた。四五年三月末に相次いで出撃した特殊潜航艇「甲標的」の音だったとみられる。

 ほどなくして沖合の米艦隊から艦砲射撃が始まった。

 「空にランプが下がっているようでした。昼間のように明るくて、山が浮き上がるようで。その晩からです」

 照明弾で丸裸にした山に向かって、敵はすさまじい砲撃を続ける。家族六人で抱き合いながら、夜通し耐えた。

 間もなく米軍が上陸してきて、今帰仁周辺をあっという間に掌握した。父ら男性は、羽地村(はねじそん)(現名護市)の田井等(たいら)収容所に連れて行かれた。

 出産したばかりの母や大城らは辺野古(へのこ)(同)の大浦崎収容所に運ばれた。トラックから降ろされた山の上にはテントが並んでいるだけ。配給の缶詰と米では足りず、大城が取ってきた桑の葉や山蕗(やまふき)を雑炊に入れ、飢えを凌(しの)いだ。

 しばらく耐えた後、父のいる羽地に向かった。男性の収容所の隣に、女性や子供のテント村があった。ここでも配給は不十分だった。赤ん坊の妹を負ぶって「『ギブ・ミー・ミルク』『フレンド』と言ったり」。生きるためには物乞いもいとわなかった。

 六月二十三日に沖縄戦は事実上終結し、八月十五日にはポツダム宣言受諾を告げる玉音放送が流れた。だが大城たちの戦争は終わらない。

 真和志村は米軍が軍用地として使っており、村民には南部の摩文仁村(まぶにそん)(現糸満市)米須(こめす)が代替地にあてがわれたためだ。四六年に入ると、次々と村民が運ばれた。「島尻郡旧真和志村戦争記」によると、二月末現在の人口は八千二百七十人に達した。

 米須海岸は波が高く、今ではサーファーの聖地として知られる。だが当時は、激戦の跡も生々しく、亡くなった兵士や民間人のおびただしい数の遺骨が放置されていた。

 「もう骨だらけですから。芋づるを引っ張ると、しゃれこうべが付いてくる。ニラを二つ取ったら、二つ付いてきたことも。特にサトウキビ畑にはたくさんありました」

 目や鼻の肉が落ちて、空洞となっている頭骨。そこに黒い蟻(あり)がはい回っている。死者の肉体を栄養にして驚くほど大きく育ったたくさんの黒い蟻。大城には今もその映像がありありと浮かぶ。

 村長の金城和信(きんじょうわしん)(一八九八〜一九七八年)が米軍に掛け合い、村民総出の遺骨収集が始まった。つるしたもっこに遺骨を集めて穴に運ぶ。「わっしょい、わっしょいと、運んでいました」(大城)。父が海岸で板を拾ってきて、穴にふたをしたという。

 三千体ほど集まったところで、金城らは沖縄で初の慰霊碑を建てた。「魂魄(こんぱく)の塔」の名を提案したのは、糸満高校摩文仁分校長(当時)の翁長助静(おながじょせい)(一九〇七〜八三年)。米軍普天間飛行場の辺野古移設反対を訴える今の沖縄県知事・雄志(たけし)(65)の父だ。助静は歌人でもあり、追悼歌<和魂(にぎたま)となりてしずもるおくつきのみ床の上をわたる潮風>を献じ、碑の裏に刻まれた。

 村民は四六年七月から翌年一月にかけて、順次、故郷に戻った。大城ら楚辺の住民たちは、米軍が地区の立ち入りを制限したため、別の場所に移らざるを得なかった。

 大城の妹二人は、戦時中の経験がもとで長くパニック症状に苦しみ、一人は後に自ら命を絶った。弟は、収容所で米兵の馬に蹴られた傷が原因で寝たきりとなり、十代で亡くなった。だが大城は泣かない。「悲しみは奥歯で噛(か)む」を信条に乗り切ってきた。

 戦争体験を初めて歌集にまとめたのは二〇〇三年の『摩文仁の浜』。一六年には『記憶の音』を出し、再び戦時のことを詠んだ。原動力は「ちゃんと歴史に残しておかないと」という気持ちだ。

 「書き残すことは、亡くなった皆さんから私が受けた使命なんです」 (敬称略)

      ◇

 「一首のものがたり」は随時掲載します。 (文化部長・加古陽治)

 

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