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【文芸時評】

金原ひとみ「軽薄」 福永信「未来を生きる君への−」 佐々木敦

 金原ひとみの四百枚長編一挙掲載「軽薄」(『新潮』)では、社会的成功者の夫と、小学生の可愛(かわい)い息子があり、彼女自身もスタイリストとして華やかな業界で働く女主人公のカナ二十九歳が、姉の子供である大学生、弘斗十九歳と肉体関係を持つ。叔母と甥(おい)の不倫の始まりは弘斗の突然の激情によるもので、カナには思いも寄らなかった筈(はず)だが、それにしてはあまりにも自然に二人は抱き合うし、それは一度きりでは終わらない。カナは十代の頃、愛情と憎しみの区別がつかなくなる破滅的な恋愛の果て、男がストーカー化し、ナイフで刺された経験があった。そのショックから立ち直る過程で現在の夫と出会い、それ以後は平穏で充実した人生を送ってきた。ではなぜ彼女は甥の求めに応じてしまうのか。一方、弘斗は十歳も年の離れた叔母への慕情と忠誠を繰り返し口にする。彼は最初から「二人で海外で暮らさない?」とまで言う。一見、非の打ちどころのない好青年である彼は、いったい何を考えているのか。だがこれは金原ひとみの小説なので、許されぬ恋の顛末(てんまつ)をドラマチックに波打たせてゆくよりも、カナが彼女の脳内世界において、現実に起こる出来事や、やがて露見する幾つかの隠された事実に対して、如何(いか)なる屈託と納得を繰り広げてゆくのか、が焦点となる。

 そこで重要なのは、題名に選ばれた「軽薄」ということである。小説の終わりになって、ようやくこの語は出てくる。「私はこの思いに全てを差し出すだろう。軽薄の上に築き上げてきた全てを、差し出すだろう」。カナは「軽薄」と「この思い」を鋭く対立させる。だが、敢(あ)えて問わねばならない。彼女は正しいのか? 何を軽薄と呼び、誰が軽薄であるのか。何が軽薄でなく、誰が軽薄さを免れているのか。この作家の小説は、いつもヒロインにべったりと寄り添っているようでいて、読み進むうちに、ひょっとすると書き手自身もはっきりとは意識していないのかもしれない、微妙な、だが無視し難い「彼女」への距離感を、そこここに生じさせてくる。これまた例外ではない。題材も道具立ても限りなく通俗的であるにもかかわらず、ここには「文学的」としか呼びようのない不可解な手触りがある。

 文芸誌も雑誌である以上、毎号なんらかのトピック、いわゆる「特集」があったりする。今月は『文学界』が、五十人もの学者や評論家を集めて「『反知性主義』に陥らないための必読書50冊」(私も寄稿した)を、『群像』が特集「対話」と銘打って、小野正嗣(まさつぐ)とSMAPの稲垣吾郎、古井由吉と堀江敏幸、穂村弘と小澤實(みのる)と小池昌代の対談鼎談(ていだん)を掲載している。

 前者は、今や流行語化している「反知性主義」の参加者それぞれの定義と捉え方の違いや、本を選ぶにあたって「文芸誌」の特集であることを意識しているかどうかなど、単なるブックガイドとはひと味違う読み応えがある。後者は特集と呼ぶには本数的に物足りないが、テレビ番組出演をきっかけに実現したという小野稲垣対談の、お互いの仕事への敬意に満ちた誠実な言葉の交わし合いには、これがけっして只(ただ)の客寄せ企画ではないことが窺(うかが)えて好感を持った。

 さて、今月最大の問題作は、福永信「未来を生きる君へのダイイングメッセージ」(『すばる』)である。福永は昨年一年間にわたって『文学界』の「新人小説月評」を担当して、明敏な批評眼とシャープな舌鋒(ぜっぽう)を披露し、現今の文壇きっての前衛的/実験的な小説の書き手が、同時にきわめてすぐれた小説の読み手でもあることを鮮やかに証明してみせた。退任して久々に自ら長めの小説を発表したわけだが、これがすごい。

 形式としては、雑誌のライターの「おれ」の独白である。或(あ)るビルの地下に変死体があるので見てきて原稿に書けとメールで依頼された「おれ」が、そこに行ってみると実際にうつぶせで血を流して倒れている人間がいた。だがその男はまだ死んでおらず、ふと見れば自分の血をインク代わりにして指で地面に文字を書いている。いわゆるダイイングメッセージというやつである。ならばミステリ仕立てかと思いきや、その「仏さん」は血文字で「おれ」とあれこれ会話を交わすばかりか、死にかかったまま異様な長文でわが身に起こった事件を延々と語り続けるのだ。

 こんなことがあるわけないとか、さすがにもう死んでるでしょとか、当然のツッコミが何度も頭をよぎるが、むろん何もかもが確信犯なのである。だが、作者の狙いはブラックユーモアでもナンセンスでもない。ここには「書くこと」と「読むこと」の関係、そして「(物)語ること」にかんする込み入った考察が、あからさまに潜在している。落語めいたばかばかしさの底に、福永信の小説論が押し込められているのだ。「今」を「人ラ」と、「言」を「一一一一口」と書くのも面白い。(ささき・あつし=批評家・早稲田大文学学術院教授)

 

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