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【文芸時評】

筒井康隆「モナドの領域」 赤坂真理「大津波のあと」 佐々木敦

 今月は何をおいてもまずは筒井康隆「モナドの領域」(『新潮』10月号)を取り上げないわけにいくまい。著者自身の言葉として「最高傑作にして、おそらくは最後の長篇」と予告された三百三十枚一挙掲載。発売前からインターネットを中心に大きな話題となり、早々に『新潮』は増刷を決めた。

 この小説に登場するのは、全知全能の存在、すなわち「神」である。物語は、ある街の河川敷で女の片腕が発見された事件から幕を開ける。商店街のベーカリーで、アルバイトの美大生が、それとそっくりの右腕をパンでこしらえる。パンは評判を呼び、次々と客が詰めかける。美大生は恐らく犯人ではなく、なぜそんなことができたのかはわからない。やがてベーカリーの常連である美大の老教授が、奇妙な言動を取り始める。彼はひとびとに対して、これから起こる出来事や当人以外には知る由もないことを次々と言い当て、自分はこの世界の何もかもを知っており、あらゆることが自分には可能なのだ、と告げる。つまり、神である。

 だが、この神は宗教的な神ではない。そんなものは所詮(しょせん)は人間の考え出したものでしかないと彼は言う。そしてこの小説は、この神(と呼ぶしかないような何か)の存在をめぐって、ディープな哲学的論議に足を踏み入れてゆく。とはいえ、それはけっして堅苦しいものではない。この作者ならではの、物語自体の推進力と人物造形の面白さに乗せられて一気に読み終えた時、読者は「最高傑作にして、おそらくは最後の長篇」という大胆不敵な言葉のほんとうの意味を知ることになる。そして「神」とはいったい誰のことなのかも。ラストシーンは、筒井康隆の長年の愛読者ならば涙を抑えることができないだろう。私も、そうだった。

 同じく『新潮』の赤坂真理の中編「大津波のあと」は、中年に差し掛かった孤独な男性新聞記者の元に、先の震災後に避難所で出会った「ふたば」というこどもから、四年ぶりに不思議な便りがある。謎めいたメッセージが記された招待状と、ギターのピックの半分。どうやら現在のふたばは「DJテレキャスター」と名乗り、陸前の海浜でレイブ(ダンスミュージックの野外フェスティバル)のような催しを計画しているらしい。記者は記憶に誘われるように北へと向かう…。『東京プリズン』以来の本格的な小説であり、あくまでも個のヴィジョンを通してアクチュアルで歴史的な主題に突破する力業は今回もさえているが、登場人物たちがそれぞれに抱える複雑な背景がいずれも高速の内的独白のみで語られており、『東京プリズン』のような大作になるべき作品を何分の一かのサイズに圧縮したかのような物足りなさも感じてしまった。素朴な感想として、もっと読んでいたかった。

 今や独自のカルチャー誌路線をひた走る『文學界』の10月号特集は「酒とつまみと小説と」。柴崎友香と島本理生と村田沙耶香の「日本酒女子会」鼎談(ていだん)。角田光代、池内紀、菊地成孔(なるよし)、坪内祐三、島田雅彦、山田詠美などなど総勢二十七名による「グラスを傾けながら読みたい名文撰(せん)」、極上つまみ小説と銘打たれた戌井(いぬい)昭人と藤野可織の短編など。『文學界』はさらに「名門校国語教師が芥川賞で試験問題を作ってみた」という企画もやっている。やはり特集主義に傾く『すばる』10月号は「国民のための新しい道徳教科書」。瀬戸内寂聴の巻頭言、中島京子と姜英淑(カンヨンスク)の対談、小野正嗣の講演、松浦理英子のインタビュー、高橋源一郎の小説「M氏のこと」など。文芸誌とはいえ、読み応えのある特集であれば、いくらやってもらっても構わない。

 谷崎由依の百六十枚の中編「幼なじみ」(『群像』10月号)は、実質的には夫婦でありながら入籍はせず、子供も作らず、かつては友人たちも一緒に住んでいた一軒家にそれぞれ部屋を持って、恋人=夫の「翔太」と同居している「笑子」の前に、「林田累」という女性が、小学校の同級生だったと言って現れる。しかし彼女は同一人物とは信じられないほどの美女に変貌しており、性格も変わっていた。売り出し中のライター「林かさね」になっていた林田累は、笑子と翔太に急速に接近する。

 明け方に鴉(からす)の死骸が郵便受けに投げ込まれる冒頭の場面から、不穏で不吉な予感がひたひたと小説を覆っており、雰囲気はともすればホラーに近い。だが、それでも決定的なカタストロフはなかなか到来することがなく、そのことがかえっておそろしい。濃密な心理劇であり、力作だと思う。惜しむらくは、ここ一番、もっと描写で追い込むべきところを、むしろ言葉を削ってムードに流してしまっている。そうされると、まるで小説が、急に映画に変わってしまったかのような戸惑いを感じる。ラストシーンもいわば映画的だが、ちょっと作り過ぎと思わなくもない。もっとも、この終わり方を捨てるのは難しかっただろう。

 (ささき・あつし=批評家・早稲田大文学学術院教授)

 

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