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【文芸時評】

上田岳弘「異郷の友人」 滝口悠生「死んでいない者」 佐々木敦

 上田岳弘(たかひろ)「異郷の友人」(『新潮』12月号)は、題名も内容も前作の三島由紀夫賞受賞作「私の恋人」と微妙に対になっているというか、更(さら)にその前のデビュー作と第二作の「太陽・惑星」とも同様の世界観、小説観で出来(でき)ていて、まだしばらくはこの路線でやっていくのだという作者の気概のようなものを感じた。

 上田の全作品を貫いているのは、一言でいえば「超越的存在の無能と無為」をめぐる思弁である。今回は「吾輩(わがはい)は人間である。人間に関することで、吾輩に無縁であるものは何もないと考えている」と開始される。程なくこの「吾輩」は過去の輪廻(りんね)転生全ての人生の記憶を保持しており、現在は「僕」こと食品卸会社の札幌支店に勤務する一見ごくごく普通の三十二歳の独身サラリーマン「山上甲哉」の中にいる、というか「僕」であることが語られる。のみならず「僕」は自分とは縁もゆかりもない、だが同じ時間を生きているらしい二人の人物の意識と記憶を覗(のぞ)き見ることが出来る。「J」はオーストラリアに生まれ、奨学金を得てスタンフォード大学に通うためアメリカ合衆国に渡った美形で頭脳明晰(めいせき)な青年で、国際的なハッカー組織を抜けようとして「最後の仕事」を命じられる。「S」は、淡路島を中心とする新興宗教の教祖である。阪神・淡路大震災を予言したことがきっかけで衆目を浴び、現在は三万人余の信者を抱えている。更に「S」は自分の信者の意識と記憶を覗き見ることが出来る。つまり「僕」こと「吾輩」は「S」を通して彼の三万人余の信者の心の中をも見ているのだ。ここまででも十分にややこしいが、この小説の特殊な設定はまだまだあるのだ。だがもうやめておく。確かに過剰にややこしいが、上田の書きぶりがスマートなので、ちゃんと読んでいけば意外と混乱することはないだろう。複雑な入れ子状になった登場人物たちの「現在」は、次第にひとつに統合されていく。

 問題はもちろん、このややこしく特殊過ぎるお話が何のためになされているか、である。先に「超越的存在の無能と無為」と書いたが、実際「僕」は「J」の上司から「神様」と呼ばれるのだが、彼はただ他人の心を覗いているだけで、そこに意志をもって介入することは出来ない。「僕」の特殊能力に理由がないように、世界に起こる出来事もただ理由なく起こるのであって、つまりこの「神」は知っているだけで殆(ほとん)ど何も出来ない。上田の作品にはしばしば人類史上の特異点のような概念が登場する。今回も「S」が「大再現」なるものを予知・予言するのだが、それは「僕」たちの思いも寄らない、だが読者である私たちにとってはすでに事実である出来事として、この小説の最後に起こることになる。

 今月の『新潮』は極めて充実していて、以前「未来を生きる君へのダイイングメッセージ」(「すばる」7月号)を取り上げた福永信の短編「店」は、前作の「血文字で延々と書かれてゆくダイイングメッセージ」に続いて「書くとすぐに死んでしまうおそろしい風土病にかかった男からの手紙」という人を喰(く)いまくった内容の相変わらずの問題作だし、二〇四五年=戦後一〇〇年の未来を舞台とする黒川創の新連載「岩場の上から」に、渾身(こんしん)の変化球で政治劇に挑んだ岡田利規の戯曲「God Bless Baseball」、星野智幸と岸政彦の対談「社会の断片と物語の呪文」など、読みどころ満載である。

 三島賞、芥川賞と、受賞は逃したものの連続して候補になり、俄然(がぜん)注目株となった滝口悠生(ゆうしょう)の「死んでいない者」(『文学界』12月号)は、期待に違(たが)わぬ力作である。通夜の晩、死んでいなくなって間もない、曾孫(ひまご)まで居るのだからまず大往生と呼んでよかろう男の家族親族たちが、さまざまなことをしたり思ったり思い出したりする、と言ってしまえばそれだけの話なのだが、故人の子である五人きょうだいがそれぞれ伴侶を得て子を孫をもうけていることもあり、互いの精確(せいかく)な関係がわからなくなるほど入り組んだ関係が、むしろおおらかさと豊かさをありありと湛(たた)えつつ、幾つものごく些細(ささい)な、だがすこぶる印象的な挿話が、ごく自然なようで、よくよく考えると何処(どこ)か不可思議に思えてくる、多焦点的とでもいうべき闊達(かったつ)な語りで綴(つづ)られてゆく。現在の隙間から自在に顔を出す過去たち。それでも今、想起されるしかない記憶たち。最終的にそれは、テレサ・テンの歌と、誰が打っているのかもわからない深夜の寺の鐘の音へと見事に収斂(しゅうれん)する。いや、歌と音の内へと開放されてゆく、という方が正しいか。

 読みながら小説の時間と自分の思い出が共振してゆく気がした。たまにはこういうことを書いておいても罰は当たらないと思うのだが、これは相当な傑作である。少なくとも、新人と呼ばれている作家のものとしては、一年間に一作か二作しか出ないレベルの作品だと思う。 (ささき・あつし=批評家・早稲田大文学学術院教授)

 

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