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【文芸時評】

文芸 この1年 佐々木敦氏、倉本さおり氏対談(下)

 倉本 村田沙耶香『消滅世界』や、星野智幸『呪文』の思考実験的な作風と、ある意味で対極にあるのが、滝口悠生(ゆうしょう)だと思います。前者二つはいずれも、共同体が持つ排他性をロジックの部分で否定する小説。一方で滝口のほうは、語りのレベルで大きな物語に小さな物語が回収されてしまわないように書いている。「死んでいない者」は各紙で絶賛されていましたが、私も評価したい。言葉の特性みたいなものにすごく愛されている作家だと思います。

◆「保坂スクール」の力

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 佐々木 滝口は保坂和志、青木淳悟らへの「愛情」を表明していますが、作品を読むとその影響が明らかです。一作一作力を付けている。

 ベスト5に磯崎憲一郎『電車道』をあげましたが、磯崎も保坂の薫陶で出てきた人。彼の小説は解きほぐしがたいけれど、文学的な重心が、しかとある。歴史への対峙(たいじ)の仕方には、大文学者になる兆しが見えている。滝口は、今はそこまで大技ではないが、非常にバランスが良い。

 山下澄人を含め、僕が「保坂スクール」と呼ぶこれらの作家には共通点がある。みんな「設計図抜きで最初の一文から書いていく」という発言をしている。これは彼らなりの方法論なのだと思います。

 倉本 いま名前が挙がった作家の作品を中心に、「私」などの一人称が作品の途中でいつの間にか三人称に入れ替わったりする「移人称小説」が注目された時期がありました。実際、新人賞に送られてくる小説を読むと、実験的な印象を与えるために人称を操作して書いているんだろうな、と感じる。でもそれは、テクニックとして頼ると危険というか、十把一絡(じっぱひとから)げに「移人称小説グループ」と分類される弊害も孕(はら)む。滝口のような作家はそういう場所から抜けている。

 佐々木 円城塔『プロローグ』には「わたし」が出てくるのに語り手ではない。繰り返し<これは私小説だ>と書いていますが、内容はぶっとんでいる。そうなると、私小説とはいったい何なのかという問題が出てくる。たぶん「私」という記号で捉えられるもの自体が、変化してきている。それに対応しようとすると、私小説もアップデートせざるを得ない。

 平野啓一郎も一人の人間は実は複数の存在に分けられるという「分人」を唱えていますが、「私」そのものが複数なんです。「私」は、いわば「彼」や「彼女」と同じような扱いになってきている。「私」と名乗る人物に統合されない「私」をどう描くかが今の小説の目標になっています。それは「移人称」にも絡んできます。

 倉本 十万年の時空を超えて転生する「私」を描いた上田岳弘(たかひろ)の『私の恋人』は、その成功例だと思います。彼の「異郷の友人」(新潮十二月号)もハードSFのような作品なのに、妙に卑近なギャグが入る点が面白い。

 佐々木 上田や、小山田浩子もそうですが、最近の新人の一つの傾向は、アンリアルなストーリーでもおしなべて読みやすいということです。円城、磯崎は文章、文体のレベルでも実験している。新人たちは内容では実験しているが、文体では実験していない。それがエンタメ的といえるのかもしれない。

 倉本 川上未映子『あこがれ』はとにかく言語センスが飛び抜けて優れている。今の子供の世界にインターネットが介入することで、思春期のイノセンスが脅かされている様子などをものすごくうまく書いています。

◆文学は結局は文章

 佐々木 川上は小説を気分で書いていない。しっかり策略がある人で、この小説ではこういうことをやってみせるというのがはっきりしている。今回も絶妙な設定。思いつくことは誰でもできるかもしれないが、それをあの文体で書けるのがすごい。文学って何だろうと大仰に考えると、結局は文章なのだと思います。内容はどうであっても、文章によってそれは文学になる。

 倉本 小川洋子『琥珀(こはく)のまたたき』は、記憶の美しさを文章の力で閉じ込めた作品。言葉の膂力(りょりょく)が凄(すさ)まじい。女性の作家なら、震災を新しい形で描いた金原ひとみ『持たざる者』もよかった。彼女の作品は私小説っぽく言われがちだけど、語り手と著者との間に冷徹な距離が感じられる。

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 佐々木 今年は筒井康隆『モナドの領域』が出た年でもあります。最初から別格感がありますね。

 神の問題に挑んだ作品ですが、最近、ベテランから若手まで、超越的な存在を描いた作品がすごく多い。円城や上田の作品もまさにそう。これらの作品で描かれる神は、人類に何らかの形で関与する存在ではない。関与したいと思ってもさせてもらえない。宗教的な神の問題で現実の世界が混乱していることも関係があると思う。

 神は「全知全能」というけれど、全知か全能どちらかだけということもある。『モナド』の神はどちらもだと言っているけれど、上田の作品には、全知だけど何もできない存在が出てきます。小説は神のような存在を繰り返し取り上げてきたが、描き方が変わってきている。

 倉本 神の問題は、先述の「私」って何だろうという問題にも絡んできます。舞城王太郎『淵(ふち)の王』も、そういうことを考えさせられた。全能の神がいない世界で「私」はどうすればいいかということを書いている。

 佐々木 舞城のテーマは一貫して「愛と勇気」です。それを真正面からストレートに、だが凝った方法で書く。でも時代のほうが、どんどん純粋な愛と勇気を許さない方向に来ているような気もします。最後まで信じられると思ったものさえ信じられない現実の酷薄さ。それが星野や村田が描いているものかもしれない。(文中敬称略)

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<ささき・あつし> 1964年生まれ。批評家、早稲田大教授。著書に『ニッポンの音楽』『あなたは今、この文章を読んでいる。−パラフィクションの誕生』など。

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<くらもと・さおり> 1979年生まれ。書評家、ライター。「週刊金曜日」書評委員。「週刊読書人」文芸時評担当。

 

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