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【文芸時評】

堀江敏幸編集「足の組み替え」 荻世いをら「私のような躯」 佐々木敦

 『文學界』三月号が新芥川賞作家二人の小特集を組んでいる。滝口悠生(ゆうしょう)は編集部のインタビューと江南(えなみ)亜美子による受賞作「死んでいない者」を中心とした作家論。そして受賞第一作「夜曲」。本谷有希子(もとやゆきこ)は吉田大助によるインタビュー。滝口の新作は小さなスナックに集う人々を描いたごく短いものだが、時と場所と人物を一旦(いったん)固定した上で自由自在に語りを羽ばたかせる技は急速に名人芸の域に達しつつある。この危なげのない実験性、ほとんどそうとは見えないほどの自然さを装った高等技術は貴重なものである。だが、であるからこそ今後はこの抜群の上手さが自明化、自動化してゆかないことを祈る。本谷のインタビューは彼女のさまざまな表現活動を長年見守ってきたライターによるもので、率直な受け答えの内に文学者としての自覚と矜持(きょうじ)が見え隠れする。二つのインタビューを読んで、一見あまり共通点がなさそうに見える滝口と本谷は、天然と計算の独特なブレンド、という意味では似ているところがあると思った。

 『早稲田文学』春号の、編集委員のひとりでもある堀江敏幸が責任編集した特集「足の組み替え」が面白い。いかにも堀江らしい言葉遣いの特集名は、足を組み替える程度のささやかな変化によっても、ことによったら違う世界が開けてくるだろう、ということだ。iPhoneで小説を書くことで知られる山下澄人が初めて手書きで脱稿したという「浮遊」は、何ということもない喫茶店での一コマが複数の視点に分散して、あちこちの時空間に飛び散ってゆく。その意味ではこれまでの山下作品の延長線上にあると言えるが、やはりどこかが違う。ここではむしろ分散と散開の有様(ありさま)よりも、バラバラにされている視点がそれでもひとつの語りに収まっていることの不思議と不可解に重心が置かれつつあるように思える。「しかしこれはわたしなのか」と自問している者は果たして「誰」なのか。他にはマンガ家でもある小林エリカ、岩手県気仙地方の方言ケセン語の専門家、山浦玄嗣(はるつぐ)、文芸評論家の加藤典洋などが「創作」を寄せている。人気作家が「責任編集」する特集は、ともすれば業界人の顔見世興行になってしまう危険性を帯びているが、この企画は人選もコンセプトもかなり冒険しており、成功している。確かにこれは「足の組み替え」である。

 『群像』三月号の特集は「30年後の世界−作家の想像力」。今から三十年後、二〇四六年は「戦後一〇一年」に当たる。このお題に応えた十二人の作家の短編競作と、奥泉光、島田雅彦、高橋源一郎による鼎談(ていだん)。先日亡くなった津島佑子(ゆうこ)が「半減期を祝って」という作品を寄せている。セシウム137の物理的半減期は約三十年である。エッセイのような始まり方をした小説は、やがて「愛国少年(少女)団=ASD」なる組織をめぐるディストピア小説に変貌する。その他、「高尾山にオスプレイが墜(お)ちたとの情報を買い、ノラネコたちは崖を登った」という一文から始まる古川日出男「列島、ノラネコ刺すノライヌ」、「戦後一〇〇年」の「大学人」の姿を描く谷崎由依「黒板」、現在の状況から演繹(えんえき)される考え得る限りあらゆる「起きてはならないこと」が起こってしまった未来が舞台の吉村萬壱(まんいち)「コレガーレスギル」等々、ほとんどの作家が実に薄暗い未来像を描き出している。描かれているのは「三十年後」だが、作家たちが見据えているのは紛れもなく「今」である。従って「今」が変われば、想像力による「未来」にも光が差し込んでくるのだろうが。

 今月いちばん読み応えがあったのは、「すばる」三月号の荻世(おぎよ)いをら「私のような躯(からだ)」である。一言でいうと、ボディビル×ストーカー小説。ただAとのみ記される主人公は、資質と才能に恵まれたボディビルダーであり、ステロイド等の筋肉増強剤の使用には反対の立場である。やがてAが知り合うことになる、彼に勝るとも劣らないボディビルダーのBは、使用肯定派である。二人は互いの実力を認め合うライバル関係になるのだが、物語はそのことよりも、Aが「ストーカー問題の解決」を業務とする会社で働くことになってから出会う幾つかの異常な案件にかんするエピソードに頁(ページ)を費やしてゆく。ボディビルの専門用語が説明抜きに多用され、ストーカー事件の加害者と被害者のヘビーでグロテスクな心理的/具体的闘争の顛末(てんまつ)が事細かに語られる。

 非常に変な小説である。だが面白い。長編の分量だが、何をどうしたいのかもよくわからないまま、最後まで読まされてしまった。ボディビルは肉体(筋肉)の膨張、ストーキングは精神(愛情)の膨張ということだろうか。荻世には以前もボディビルを題材とした小説がある(「筋肉のほとりで」、『すばる』二〇一〇年十二月号)。久々の文芸誌登場だが、随分クセ者になって還(かえ)ってきたようである。

 (ささき・あつし=批評家・早稲田大文学学術院教授)

 

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