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【文芸時評】

蓮實重彦「伯爵夫人」 保坂和志「地鳴き、小鳥みたいな」 佐々木敦

 ボヴァリー夫人の後に伯爵夫人がやってくるだなんて、誰が予想し得ただろうか?

 蓮實重彦(はすみしげひこ)「伯爵夫人」(『新潮』4月号)は、三百枚一挙掲載の長編小説である。蓮實は二〇一四年、長期にわたって執筆され、自らライフワークと呼んでいた浩瀚(こうかん)な『「ボヴァリー夫人」論』を遂(つい)に完成、刊行したが、まさか次に「夫人」繋(つな)がりの小説を書いてしまうとは。しかしこの驚きは、この作品を読み始めるとすぐさま質の異なる驚愕(きょうがく)へと転じることになる。そのあまりの面白さに夢中になって頁(ページ)を繰りながら、唖然(あぜん)、呆然(ぼうぜん)、愕然(がくぜん)とさせられたのは私だけではないだろう。なにしろこれは、まぎれもなく一種のポルノグラフィというべき代物なのだ。

 内容がポルノなので、ここでの紹介は大変むつかしい。単に男女の色事が描かれているだけではない。筋立ては言うに及ばず、むしろそれ以上に、書きつけられる単語のレベルで、この小説は徹底的にはしたなく、いやらしい、つまりは助平そのものの作品なのである。どこを引用しても公器たる新聞にはふさわしからざる字句が含まれてしまうのだが、かろうじてまだ物語が開始されたばかりの冒頭の一文はこうである。「傾きかけた西日を受けてばふりばふりとまわっている重そうな回転扉を小走りにすり抜け、劇場街の雑踏に背を向けて公園に通じる日陰の歩道を足早に遠ざかって行く和服姿の女は、どう見たって伯爵夫人にちがいない」

 ちがいない、と思ったのは、この小説の主人公である青年・二朗。時代は太平洋戦争開戦前夜、舞台は大日本帝国の帝都東京。二朗は帝大法科への入試を控えた高等学校生で、最後まで名前が記されることのない伯爵夫人は彼が家族と住む屋敷に同居しているのだが、その理由は定かではなく、そもそも彼女が本物の「伯爵夫人」であるのかどうかも甚だ怪しい。ことによると上海あたりの高級娼婦(しょうふ)の成れの果てなのかもしれない。活動写真狂いの二朗は「ごく他愛もない聖林(ハリウッド)製の恋愛喜劇」を観(み)た帰りに伯爵夫人を発見した。彼女は彼に「せっかくですからご一緒にホテルへまいりましょう」と誘う。そして二朗のめくるめく冒険が始まる。ここから先は書くわけにはいかない。

 蓮實はこれまでに二作の小説を発表している。「陥没地帯」(一九七九年)と「オペラ・オペラシオネル」(九四年)である。三つ目に当たるこの作品は過去のどちらとも読み味が異なっている。度を超して助平である、という点のほかに、先にも述べたように、とにかく無類に面白い、ということが挙げられる。この面白さは、通俗性と言い換えてもよい。謎と魅力に満ちた伯爵夫人に翻弄(ほんろう)されつつ展開する二朗の冒険は、迫り来る戦争の影を背景に、虚実と夢現(ゆめうつつ)のあわいをしどけなく行き来しながら、ドラマチックと呼んで差し支えない見事な幕切れへと収斂(しゅうれん)してゆく。ともあれ、元東大学長のフランス文学者が突然著したこのポルノ小説が読者と世間にどのように受け止められるのか、興味津々である。

 今月もうひとつ触れておくべきは、保坂和志の中編「地鳴き、小鳥みたいな」(『群像』4月号)だろう。まず新聞連載された彼自身の長編『朝露通信』の冒頭の一文「たびたびあなたに話してきたことだが僕は鎌倉が好きだ」が引用される。『朝露通信』は作者が幼少から青年期までを過ごした鎌倉と山梨という二つの土地についての作品だが、この小説はその連載途中に「私」が、『朝露通信』ではあっけなく消えてしまい正体が明らかでなかった、不倫の恋人であるらしい「あなた」の運転する車に乗って、記憶を確かめるために母の実家のある山梨に行ってきた、という話である。といっても、いわゆる私小説とは違う。いや、むしろこれこそ「私の小説」なのかもしれないが、ここで「あなた」は「私」を「加藤さん」と呼ぶ。「俺は加藤っていうのか」「だってそれ以外に何て呼べばいいのよ」。ここで思わず噴き出してしまった。

 最近文庫になった長編『未明の闘争』以後の保坂は、小説にはいかなる禁じ手もない、という真理をあらゆる手段で証明し続けており、それはもはや文法的に変であっても意味は通じる、むしろその変であることによってこそ伝わる何かがある、という次元にまで及んでいるのだが、この小説ではその過激さは更に極まっている。そして実際に、明らかに日本語の文章としては間違っている箇所が多々あるのにまったく問題なく読めてしまうし、ほとんどとりとめもなく次々と思い出したことや思いついたことが記されていっているだけのようなのに、「伯爵夫人」とはまた別の意味で、やはり無類に面白いのだ。

 小説とは限りなく、果てもなく自由な形式であるということを、この作品は体現している。しかしこれを誰にでも出来ると思ったら大間違いだ。

 (ささき・あつし=批評家・早稲田大文学学術院教授)

 

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