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【文芸時評】

鹿島田真希「少年聖女」 今村夏子「あひる」 佐々木敦

 本欄を担当して丸一年が経過した。手前味噌(みそ)で恐縮だが、先日、私は『ニッポンの文学』という新書を上梓(じょうし)した。そこで私は「文学」とは「芥川賞の可能性がある小説」すなわち「文芸誌に掲載されている小説」のことである、という身も蓋(ふた)もない定義を提出し、従って「文学」とは「ミステリー」や「SF」などと同じく一種の「ジャンル小説」なのだ、という主張を展開した。結局のところ「文学」と「文学以外」を分かつのは、文学の専門誌であるところの「文芸誌」に載ったものかどうか、ということでしかないのだと。

 この意見には当然、反論があるだろう。文芸誌以外で書かれた小説にだって「文学」的な作品はあるし、文芸誌掲載の小説にも「文学」性がまるで感じられないものがあるではないか、と。それはそうかもしれない。私もそう思う。だがその場合、私の考える「文学的」「文学性」と、あなたのそれは同じものだろうか?

 「文学」とは何なのかよくわからない、とは要するにこういうことである。もちろん文芸時評などという仕事を仰せつかったからには、これは「文学」だが、これは「文学」ではない、と断言する毅然(きぜん)とした意見を持っているべき、少なくともそう振る舞うべきなのかもしれない。しかし私には、自分の知らない「文学」性、まだ私が理解していない「文学」的な何かがあるのではないか、という可能性を排除できないし、排除すべきでないとも思っており、そのことを期待してさえいるので、やはりこれからも、あれこれ考えつつ「文学」の曖昧さと付き合っていくしかないのだと思っている。

 鹿島田真希のひさびさの書き下ろし長編「少年聖女」(『文藝』夏号)は、この作家の面目躍如たる奇怪にして神聖な力作である。種々の魚たちが棲(す)む水槽が店内に点在するゲイバー「Aqua」で、専門学校生の「僕」は「優利=ユウリ」という店員から、かつて少年のふりをしてここで働いていた女が、それまで誰にもバレなかったのに、ある時初めて店に来た男に正体を見破られた、という話を聞く。そこからユウリは、その女「河合珠子=タマ」と、その男「高橋武史」の伝説を語り出す。かまぼこ工場で働く武史は親子ほども年下のタマに一目惚(ぼ)れし、彼女をやみくもに愛し、やがて二人は結婚する。幼いころから母親と義父たちからあまりにも酷(ひど)い仕打ちを受けてきたせいで、ほとんど異様とさえ言ってよい純粋無垢(むく)さに達しているタマは、武史には「叡智(えいち)」があると言う。

 各章は「僕」の一人称から始まるが、いつのまにか武史とタマの物語(それはユウリが語っている筈(はず)である)に横滑りしている。二層構造になっている理由も、時間的な距離も、小説の中盤くらいまで定かではない。謎めいた書き方だが、最後にその意味は明らかになる。タマのルームメイトで、チェルノブイリの百キロ圏内の場所で原発事故に遭い、その後産んだ子を甲状腺ガンで喪(うしな)い、失意のため酒びたりになり廃人同然となった夫を置いて日本にやってきた「オリガ」や、武史の故郷北海道の海岸沿いの村唯一の医者の妻で、夫が膵臓(すいぞう)ガンで突然死して以後、医院を継いで自ら診療を行うようになり、やがて亡き夫の服装を身に纏(まと)って診断書に夫の名前をサインするに至る「倉山晴子」など、これでもかというほど悲惨なエピソードが次々と登場する。

 鹿島田の小説世界にはほとんど常に、神秘を欠いた宗教性とでもいうべき独特の強固な観念がみなぎっており、この作品で交わされる登場人物たちの会話やその行動原理も容易には解きほぐし難い。しかしそれと同時に、道具立てといいキャラクター設定といい、この小説はエキセントリックな通俗性を濃厚に帯びていて、読み始めるやいなや読者を底なしの深淵(しんえん)へと引きずり込む不思議な魅力を持っている。こういう作品に出会うと、文芸誌以外には発表されることがないだろう、しかし歴然と面白い「文学」というものが存在するのだとあらためて思う。こういう書き方を敢(あ)えてするのは、およそ「文学」と「面白さ」は、どこかで相いれないものと思われている節があるからである。だが、そんなことはないのだ。

 文学ムックと銘打たれた新雑誌『たべるのがおそい』の創刊号に、今村夏子の短編「あひる」が載っている。今村は太宰治賞受賞のデビュー作「こちらあみ子」を含む本で二〇一一年に三島由紀夫賞を受賞後、長い沈黙に入り、同書の文庫版に短編を書き下ろしていたのが二年前のことだった。「あひる」はあひるの話である。これまでの作品と同じく、簡潔で透明な文章によって、ひとの痛みと歓(よろこ)びが、その切実さと残酷さが、さりげなくも丁寧に、鮮やかに描かれる。今村は紛れもない天才だ。私たちは彼女が滅多(めった)に小説を書かないことを嘆くよりも、こうしてまた読めることを感謝しなくてはならない。 (ささき・あつし=批評家)

 

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