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【文芸時評】

滝口悠生「高架線」 関口涼子「声は現れる」 佐々木敦

 滝口悠生(ゆうしょう)の書き下ろし長編「高架線」(『群像』3月号)が、とてもこの作家らしい飄々(ひょうひょう)とした佇(たたず)まいの好作だった。西武池袋線の東長崎駅から歩いて五分ほどの場所にかつて存在した「かたばみ荘」の住人たち、およびその周りの人物たちによる、一種の群像劇である。

 「かたばみ荘」は老朽化の甚だしい木造二階建てのアパートで、各階に二部屋ずつ、計四部屋しかない。大家の方針(?)によって、不動産屋を介さず、各部屋の住人は代々、部屋を出ていく際には次に住む者を自ら連れてくるしきたりになっている。これによって六畳一間に二畳ほどの台所、風呂トイレ付きで家賃三万円という破格の安さが維持されており、貧乏な学生や単身者にはうってつけの物件となっていた。

 小説はまず「新井田千一」のひとり語りから始まる。新井田はきちんと名前を名乗ってから、生い立ちを含めた自己紹介をして、その昔「かたばみ荘」に約四年半住んでいた時のこと、それから自分を継いで部屋を借りた「片川三郎」の奇妙な失踪事件の顛末(てんまつ)について、とりとめもなく語り続ける。いったん話が途切れると「*」が挟まって、ふたたび「新井田千一です。」と名乗り直して語りは続けられる。それが何度か繰り返されて、起こったことの様相がおおよそわかってきたあたりで、突然、語り手は「七見歩」に変わる。

 七見も新井田同様「七見歩です。」と名乗ってから話し出す。彼は「片川三郎」の幼馴染(おさななじ)みで、自分自身は「かたばみ荘」に住んでいたわけではない。だが三郎に金を貸していたことにより、その失踪事件にかかわることになる。ならば物語は「片川三郎」をめぐって展開していくのかといえば、必ずしもそうではなくて、その後も何人かの語り手が出てきてさまざまなことを語り、いつの間にか「かたばみ荘」を中心とするおおらかで豊かな時間の流れのようなもの、人と人のかかわりの色とりどりの数珠繋(じゅずつな)ぎのようなものが、ゆっくりと、鮮やかに立ち上がってくる。

 最終的に「かたばみ荘」は取り壊されることになるのだが、そこに至って明かされる幾つかの隠された真実(?)は、実のところそれなりに劇的と呼んでもいいものである。ああ、そうだったのか、と読者が抱くだろう驚きは、かなり作り物っぽいとも言える。だが滝口は、それを大袈裟(おおげさ)に描こうとはまったくしていない。むしろ「現実だからこそ、このぐらいドラマチックなことが時にはあったりするんじゃないか」とでも言いたげな何気なさに満ちている。本筋が特に存在してないような作品だが、その中でも瑣末(さまつ)なエピソードや些細(ささい)なディテールがとりわけ面白い。これはもちろん誉(ほ)め言葉として書くのだが、なんだか地味だが妙に心に残る映画かドラマかマンガのような読後感だ。

 滝口は今月『新潮』3月号に短編「今日の記念」も書いている。こちらは離婚歴のある「私」が運転免許の更新を忘れていて、京急線の鮫洲にある運転免許センターまで再交付に行くと、二週間ほど前に飲み屋で隣り合わせになり、ほぼ見ず知らずのまま自分の家に泊めた、だが指一本触れることのなかった女と再会する、という話。

 こういう取り立ててなんでもなさそうな普通の人間の普通の人生の一断面を切り取って、それほど普通ではない小説に変成させる滝口のセンスは抜群だと思う。彼は「死んでいない者」で芥川賞を受賞してからまだ一年しか経(た)っていないが、この間にかなり多くの中短編を発表している。旺盛な生産力だが質も落ちていない。小説家として極めて良い状態にあると言ってよい。

 フランス在住の詩人で翻訳家の関口涼子による「声は現れる」(『文学界』3月号)は、目次には「散文」と銘打たれている。長短さまざまな断片が六十ページにわたって続く。主題は題名にも冠された「声」である。「大切な人の声を録音してください。この本は、ただそう言うために書かれた」。亡くなった祖父の声。留守番電話に録音されていた筈(はず)なのに、いつのまにか消去されてしまっていた、もう二度と聴くことのかなわない、彼女を呼ぶ祖父の声。この「声」の記憶を引き金として、永遠に失われた声たち、失われていた筈だが録音されていたことによって永遠の再生の可能性を帯びた声たち、それでもなお、その声が発された「その時その場」からは決定的に、絶望的に隔てられてあるしかない声たち、などなどにかんする随想と思弁が黙々と淡々と書き連ねられていく。

 非常に抽象度の高い文章だが、はじめの方にはこんな記述がある。「これから書かれるのは個人的な物語」。そう、これは「物語」なのだ。「散文」とされているが、一種の「小説」としても読める。この分量の一挙掲載は文芸誌としては異例とも思えるが、価値ある試みだと思う。 (ささき・あつし=批評家)

 

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