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【文芸時評】

鴻池留衣「ナイス・エイジ」 乗代雄介「未熟な同感者」 佐々木敦

 鴻池留衣(こうのいけるい)「ナイス・エイジ」(『新潮』7月号)が抜群に面白かった。以前この欄でも取り上げた「二人組み」で新潮新人賞を受賞してデビューした鴻池は、第二作にして早くも大きく化けたと言っていいだろう。

 インターネットの匿名掲示板に「2112」というハンドルネームで現れた人物が、自分は二一一二年の未来からやってきたタイムトラベラーだと標榜(ひょうぼう)し、もちろん最初は単なるネタだと思われるのだが、一回目に登場した二〇〇九年に、東日本大震災、民主党政権に代わる自民党政権の誕生とその長期化、福島第一原発事故被災地への立ち入り禁止、という三つの出来事をすべて「予言」し的中させていたということで、俄(にわ)かに話題となる。

 「2112」はその後いったん姿を消したが、二〇一一年の震災後に再び降臨し、今度は五年以内の「国民的アイドルグループ」の解散とオリンピックの東京開催決定を予言、これものちに実現する(「首都直下型地震」も予言するが、それは当たらない)。そして二〇一六年になって三たび「2112」は現れ、なんと掲示板のオフ会(ネットでの知り合い同士が現実に顔を合わせる会)に参加すると宣言する。

 小説のはじまりは、このオフ会の模様で、アダルトビデオ女優をして生計を立てている絵里は「アキエ」という偽名で会に参加する。当然皆は誰が「2112」なのかを互いに探り合い、あるいは自分が「2112」であるかのようなフリをしたりして、それぞれに楽しんでいる。絵里は「進次郎」と名乗る年下の青年と意気投合し、ふと気づくと朝で二人だけになっている。すると進次郎は彼女を「おばあちゃん」と呼ぶ。自分は絵里の実の孫であり、つまり未来からやってきた「2112」なのだと。

 当然、彼はタイムマシンも持ってきている。なんとそれは赤いキャリーケースに偽装(?)してある。絵里はもちろんそれを信じるわけではない。むしろ進次郎の嘘(うそ)を見破るべく、独り住まいのマンションに同居させることにして、かくして二人の奇妙な共同生活が始まる。やがて「アキエ」は「2112」の行状を自ら掲示板に書き込み始める。ネット民たちは盛り上がり、やがてそれは大きな騒動に発展してゆく。

 未来から来たタイムトラベラーは、彼にとっての過去であるところのわれわれにとっての未来を知っているがゆえに「予言」をすることが出来る。SFでは古典的な設定だが、この作品の狙いはそこにあるのではない。「2112」の予言は、確かに幾つかは当たるのだが、外れる場合もあれば妙に曖昧なところもあり、まともに考えれば、露骨に怪しい。そして人々は、それを百も承知の上で、その怪しさも込みで、このネット出自の「祭り」に参加している。

 「ポスト真実(トゥルース)時代の新文学」と『新潮』目次の惹句(じゃっく)にあるのだが、これは本文中にそのまま出てくる表現である。ポスト・トゥルース。ひとは今や自分が信じたいことだけを信じる。無意識にそうしている者もいれば、そういう時代であることをよくよくわかった上であえて「信じることにする」者もいれば、何らかの意図をもって信じるフリをする者もいる。

 時間旅行者という極端なネタを使って、鴻池は新しいタイプの日本文学を書き上げた。クセのない文体はあくまでも読みやすく、その徹底した滑らかさは評価の分かれるところかもしれないが、とにかく二百枚の中編を読み始めたら最後まで一息だった。それからこの小説のポイントは、大胆にも次の元号を予言してみせていることだろう。これがもしも当たってしまったら、と思うと痛快な気分になってくる。

 乗代(のりしろ)雄介「未熟な同感者」(『群像』7月号)は、この作家がデビュー以来一貫して追求している度を超してブッキッシュ(書物耽溺(たんでき)的)な屈託と純情の世界を、さらに一歩進めた印象の佳作である。フローベール、宮沢賢治、二葉亭四迷、ローベルト・ヴァルザー、保坂和志、柄谷行人、夏目漱石、カフカ、そして今回話の中心に置かれるJ・D・サリンジャーと、次々と非常に長い引用が挟まり、その合間(ほんとうはもちろん逆なのだが読んだ印象としては引用がメインであるかのようなのだ)で、大学のゼミで出会った美少女、間村季那に魅入られる阿佐美の語りが進行する。

 これまでにも増して創作と評論のハーフのような奇態な小説になっており、それでいて物語のレベルでもかなりセンセーショナルなことが起こる。しかし独自の作風として確立するにはまだ一歩手前という感じがしてしまうのは何故だろうか。「本物の読書家」(『群像』2016年9月号)の時にも指摘しておいたことだが、結末を結末らしく閉じようとする工夫がかえって仇(あだ)になっているのではないか。いろいろと仕掛けを弄(ろう)した結果、策ばかりが目立って本音がぼやけているような気もする。

 (ささき・あつし=批評家)

 

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