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【文芸時評】

沼田真佑「影裏」 加藤秀行「海亀たち」 佐々木敦

 第百五十七回芥川賞は沼田真佑(しんすけ)「影裏(えいり)」(『文学界』5月号)に決まった。本欄でも初出時に取り上げておいたが、この作品は文学界新人賞受賞作、すなわちデビュー作であり、文芸誌一作目でいきなり芥川賞というのは近々だとやはり「文学界」の又吉直樹「火花」があったものの、新人賞受賞作で芥川賞受賞となると、第百四十八回(二〇一二年下期)の黒田夏子「abさんご」(早稲田文学新人賞)以来のこととなる。しかも黒田はちょっと例外的なケースなので(黒田は一九六三年に一度小説家デビューしている)、その前だと群像新人文学賞受賞作「アサッテの人」で芥川賞を射止めた諏訪哲史の〇七年、今回はそれからちょうど十年ぶりということになる。

 「影裏」は、医薬品会社の岩手支店に出向している三十過ぎの独身男性の「わたし」が、職場の同僚だった「日浅」という男と休日に釣りに出かけるなど友人付き合いをしていたが、日浅が転職した後、ある理由から疎遠になってしまい、東日本大震災の津波で日浅が亡くなったらしいと知ったのをきっかけに、かつての友人の隠された面が明らかになっていく、という物語である。丁寧な釣りの描写と、それとは不均衡な人物像の意図的な曖昧さなど、一作目とは思えない巧みな技術が駆使されており、地味ではあるが確かな筆力が評価されたということだと思われる。率直に言えば二作目以降を待ってからの授賞でもよかった気もするのだが、まずはこの幸運な新鋭作家の出発を祝福したいと思う。

 同じく文学界新人賞出身で、すでに過去二度、芥川賞の候補に挙げられている加藤秀行の「海亀たち」(『新潮』8月号)は、過去作「サバイブ」「シェア」「キャピタル」と同じく生き馬の目を抜く国際的な起業家の世界を描きながらも、主人公はこれまでのように明確な「勝ち組」というわけではなく、むしろ負けを何とか食い止めようとしているところから物語は始まる。今回の舞台はベトナムのホーチミン(最初はダナン)。野望を抱いて海を渡った「俺」は、ホテル経営の夢があっさりと破れて万事休すのところを、香港からベトナム支社を設立するべくやってきたゲーム関係の広告代理店の経営者二人に拾われる。彼らは「海亀」と呼ばれる、香港が中国に返還される際に他国に移住し、外国人として香港に戻った成功者だった。「俺」は「海亀たち」の会社で働きながら、自分自身の行き先を探り続ける。チャンスをものにして海亀になるのか、それとも?

 加藤の小説の最大の特徴は、多くの日本人作家にとってはあらためて問題にするまでもない、それゆえに問題にしようとすれば大問題にするしかない、前提条件としての「日本」が、何ら重要視されていないということだろう。実際にバンコク在住だという作者は、日本に生まれた日本語を母語とする日本人であるということを、いわばたまたまの与件としてしか考えていないに違いない。それでいて日本語で書かれ日本の文芸雑誌に掲載されている彼の小説は、その結果、一種独特のローカルなグローバルさを醸し出すことになる。今作もその意味でかなり面白いが、ちょっと登場人物像が類型的に過ぎる気がするのと(前からその傾向はあったが今回は明らかに描き込みが足らない)、あとは結末のつけ方が少々安易ではないだろうか。開放的な、明日への希望を感じさせるラストだが、そのポジティヴさは自己啓発的な匂いがする。おそらくこの肯定性も故意に選び取られているのだろうが、もう少し翳(かげ)りがあってもいいのでは、と思ってしまった。

 私も全面的に参加しているのでここで触れるのは気が引けるが、『文藝』秋号が「現代文学地図2000→2020」という大特集を行っている。この二十年の文学シーンの総括的な座談会(栗原裕一郎、小澤英実、私、司会は田村文)と「来たるべき作家たち」を挙げる座談会(江南亜美子、倉本さおり、矢野利裕、司会は私)に、文芸評論家や編集者三十八名による一頁(ページ)批評、更に百三十一名が参加したアンケート、そして二つの座談会に対応した二葉の「地図」から成っている。

 「文学」と呼ばれる世界/業界への主な人材供給装置である各誌新人賞と異業種からの参入によって、年々作家の数は増えている。この特集の目的のひとつは、出来(でき)るだけ数多くの小説家の名前を「地図」に配するということだった。文学は読まれない。読まれているのは芥川賞などの一部の話題作だけだ、とはよく言われることだし、それはまったくもって正しい。だが、それゆえにこそ「地図」が必要なのだ。この特集を繙(ひもと)くことで、ほんの微(かす)かでも文学に興味を抱く、名前も知らなかった作家の小説を読んでみたくなる、という読者がひとりでも増えることが、企画に携わった者としてのささやかな願いである。

(ささき・あつし=批評家)

 

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