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【文芸時評】

町田康「湖畔の愛」 青木淳悟「プロ野Qさつじん事件」 佐々木敦

 「文学」と「笑い」は、あまり相性のよくないものと考えられているのではないだろうか。「笑える純文学」などという表現は聞いたことがない。だが、それは実在する。現に今月の文芸誌には三編も載っている。

 町田康の中編「湖畔の愛」(『新潮』9月号)を読みながら、何度も爆笑を抑えることが出来なかった。物語られるのは、湖に臨む老舗ホテルを舞台に演じられる、絶世の美女をめぐる恋のさや当てにして究極の「芸」を目指す者たちの丁々発止の渡り合いである。と書くと真面目な話のようだが、そこはこの作者のこと、全編完膚なきまでにふざけている。

 経営陣が変わってサービスが劣化し、従業員の士気も下がりまくりの九界湖ホテルに、立脚大学の演劇研究会が合宿にやってくる。もともとは名称通り「演劇」を「研究」する会だったのだが、長い歴史を経るうち、いつのまにか様々な「演芸」を会員自ら披露する会に変貌していた。年に一度催される発表会で、もっとも多くの会員の支持を集めた者が次期会長になるのだが、九界湖ホテルに程近い会場で開かれる今年の発表会にはもうひとつの意味があった。気島淺という途轍(とてつ)もない美人だが、なんであれ才能というものに極度の偏愛を抱きがちで、しかもその偏愛が恋愛感情に直結するという特殊な癖を持った女性が、演劇研究会の若きホープである岡崎奔一郎の「才能」に一目ぼれして、演芸に何の知識もないのに入部してきたのだが、良家の子息で美男でもある岡崎と違って下流出身で醜男(ぶおとこ)、だが「笑い」への情熱と才能は溢(あふ)れんばかりに持った会員、大野ホセアが、会長の座と気島の寵愛(ちょうあい)を賭けて敢然と岡崎に挑戦したのだ。

 と、こうしてあらすじを記していても実に馬鹿馬鹿しい話なのだが、町田康の天才的な話芸ならぬ筆芸によって、一文一文が本当に可笑(おか)しく、ことによるとこの作者は頭がおかしいのではないかとさえ思えてくる。前代未聞、抱腹絶倒の恋愛小説にして芸道小説である。

 青木淳悟の長編一挙掲載「プロ野Qさつじん事件」(『すばる』9月号)も、笑えるという点では負けていない。日本初のドーム球場(後楽園ドーム)が開場した一九八八年の九月、プロ野球界を揺るがす「さつじん」「ニセ札」事件が起こり、前年に「電撃引退」をしたばかりの読報巨軍ガンアンツの元エースピッチャーで現在は野球解説者にしてテレビタレントのイガワ・スグレが、思わぬことから「事件」に巻き込まれ、真相究明のために奔走する。

 イガワをはじめ、オイ・サダマル、クワワ・マスズシ、キオハラ・キオスク、ホラ・タツノ、ガガリクソソン、カキフ・マサカリなど、有名野球人が誰でもモデルのわかるかたちで登場し、そのネーミングセンスだけでも猛烈に可笑しいのだが、彼らの言動もモデルとなった人物の一般に知られたキャラクターを踏まえつつ過剰に戯画化されており、球界パロディー小説と呼ぶのも憚(はばか)られる異様さに達している。しかも物語自体がファミコン・ソフト「プロ野Qそっくり事件!」をなぞっていることが判明し…。青木はとにかく「変な小説」しか書かない稀有(けう)で貴重な作家だが、今回もその面目躍如たる怪作である。そもそもなぜ今のタイミングでこのネタなのか、さっぱりわからないところが、また笑える。

 『文学界』9月号に、筒井康隆の「モナドの領域」以来、一年十一カ月ぶりの新作小説「漸然山脈」が掲載されている。「モナド」の作者自身による惹句(じゃっく)には「おそらくは最後の長編」とあったので、短編は書いてくれるのかなとは思っていたが、御年八十二歳の老作家が書いたとは到底思えない、スラップスティックの最果て、ナンセンスの極限を突破した傑作となっている。

 「焼酎を雪で割り、約二合飲んだその勢いで歩き出そうとしたものの、何しろ小さな女たちが肩といわず背中といわず胸といわず、上着の裾といわず足といわず無数にぶら下がっているので前へ進めず、大声で『ラ・シュビドゥンドゥン』を歌ってやる」。これが冒頭である。ストーリーや設定や登場人物の突飛(とっぴ)さ、奇怪さの追求のみならず、文章の意味自体をあらゆる手を尽くして脱臼し破壊するという実験を、この怪物作家は遠い昔から幾度となく試みてきたが、この作品はその最新版にして最高傑作となっている。小説の末尾には「作詞・作曲 筒井康隆」による歌曲「ラ・シュビドゥンドゥン」の歌詞と譜面が附(ふ)されている。瞠目(どうもく)すべき創作力と言ってよいだろう。願わくばこの調子で「モナドの領域」に続く長編もぜひ書いてもらいたいものである。

 三者三様だが、どれも最高に「笑える純文学」となっている。いかにもシリアスな「笑えない純文学」よりも、これらの方が余程書くのが大変だと思う。技術だけではどうにもならない天性の言語センスが、文学で笑わせるには必要なのだ。

 (ささき・あつし=批評家)

 

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