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【文芸時評】

本谷有希子「静かに、ねぇ、静かに」 松尾スズキ「もう『はい』としか言えない」 佐々木敦

 本谷有希子の久々の新作「静かに、ねぇ、静かに」(『群像』3月号)は、三つの短編小説から成るオムニバスである。三編の内容に直接的な関連はないが、陰惨と言っていいほどのやりきれなさ、不気味と呼びたくなるほどにいたたまれない雰囲気が共通している。

 本谷はどちらかといえば寡作だが、文学賞の「三冠」とも呼ばれる芥川龍之介賞、野間文芸新人賞、三島由紀夫賞を制覇していて、さらに今はなくなってしまった大江健三郎賞も受賞しており、のみならず劇作家としては「演劇界の芥川賞」であるところの岸田國士戯曲賞と、鶴屋南北戯曲賞まで受賞しているのだから、もはや最強と言っていい存在である。自意識にがんじがらめになった人物たちの迷走と暴走を特異な設定で描く作風は初期から一貫しているが、最近の小説では自由闊達(かったつ)な語りの内に空恐ろしいような凄味(すごみ)が出てきた。今回の三編もいずれ劣らぬ傑作である。

 「本当の旅」では長年の親友である三人の男女が連れ立ってマレーシア旅行に行くのだが、彼らは四十歳前後なのにまともに働いておらず(「働けておらず」の方が正しいのかもしれない)、現状への不満と将来への不安をSNSにのめり込むことで埋め合わせている。本人たちは気づかないフリをしているが、いわゆるイタい人物揃(ぞろ)いである三人の描かれ方は情け容赦がなく、読み進めてゆく内に苦笑の苦みがどんどん増してくるような気がする。やがて三人は得体の知れないタクシーに乗せられて或(あ)る場所に運ばれてゆく。

 続く「奥さん、犬は大丈夫だよね?」の「私」は、夫と彼の会社の同僚、その妻とで小旅行をすることになる。といってもどこかに行くのではなく、駐車場に停(と)めたキャンピングカーに一泊するのだ。同僚夫妻は一匹の犬を連れてくる。「私」はネット通販の中毒で、夫から全く信用されていない。そして事件が起こる。

 最後の「でぶのハッピーバースデー」は、でぶと呼ばれる妻とその夫の物語である。二人は長年共に働いていた職場が突然倒産し、一緒に失業した。それ以来人が変わってしまった夫は、でぶの歯並びの悪い口元がよくない、そこには「印」のようなものがこびり付いてると言う。でぶが「印」って何と訊(たず)ねると、夫は「俺達が、いろんなことを諦めてきた人間だっていう印だよ」と答える。だがでぶはステーキ屋に就職し、夫もそこで働けることになる。でぶは一念発起して歯医者にも行くのだが、まず右側の歯を四本抜いたところで顔が腫れ上がり、数日寝込んでしまったせいで、残りの歯を処置せぬまま仕事に復帰する。そして二人は職場のクリスマスパーティに出なくてはならなくなる。夫は面相の変わったでぶにまた「印」の話を持ち出す。

 特に「でぶのハッピーバースデー」は、諦念も絶望も通り越した透明な痛みと切なさを、そして紛れもないひとつの「愛」のかたちを、この作者にしか書けない明晰(めいせき)さと率直さで残酷なまでに鮮やかに描き出した、ほとんど完璧と言いたくなるほどの名編である。「最強」は伊達(だて)ではない。

 演劇人としては本谷有希子の師匠筋に当たる松尾スズキの、これも久方ぶりの小説「もう『はい』としか言えない」(『文学界』3月号)も面白かった。主人公は初老のシナリオライター/俳優で、二度目の妻に浮気がバレて二十四時間監視状態の日々を送る羽目になる。彼はもう離婚だけは御免なのだ。そんな彼にフランスから「エドゥアール・クレスト賞」なる謎の賞を与えたいとの連絡があり、少々精神を病んだフランス人と日本人のハーフ青年と共に(妻から逃れて)彼の地へと旅立つのだが……物語はあれよあれよという間に序盤からは想像もつかない方向へと転がってゆく。パリのはずれにある移民(難民)たちの街の描写は強烈である。最後の最後になって、やっと読者は、この小説のテーマが何であったのかを、そしてタイトルの真の意味を知ることになる。

 松尾も本谷も演劇から小説に越境してきた才能だが、演劇専門誌『悲劇喜劇』の3月号に、劇団「Q」を主宰する劇作家、演出家の市原佐都子の小説「マミトの天使」が掲載されている。同誌は以前も気鋭の劇作家、松原俊太郎の初小説「またのために」を掲載しており、意欲的な編集方針と言えるだろう。市原は以前「虫」(『すばる』2016年6月号)という小説も発表しているが、そちらは「Q」としての演劇作品の小説版だった。今回はオリジナルだと思うが、原稿用紙百十枚の中編を、「Q」の芝居を彷彿(ほうふつ)とさせる濃密で異様なテンションのモノローグ(独白)で押し通している。ほとんど狂気の域に達するほどに「正常」な女子のモノローグ。正常であり過ぎるからこそ、この世界では、こんな世界では、狂うしかないのだ。新聞では粗筋を紹介するのも憚(はばか)られる内容だが、この言葉の力は相当なものである。市原も遠からず文学の側から注目されるだろう。

 (ささき・あつし=批評家)

 

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