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【放送芸能】

受け継ぐドラえもん 生んだ心 師匠の思い出を作品に むぎわらしんたろうさん

 藤子・F・不二雄さんのチーフアシスタントを務めた漫画家むぎわらしんたろうさん(49)が、亡き師との思い出を描いた「ドラえもん物語 藤子・F・不二雄先生の背中」(小学館)を刊行した。ドラえもんの掲載誌の一つ「月刊コロコロコミック」の創刊40年企画で、最期まで創作への情熱を絶やさなかった巨匠のあまり知られることのなかった物語だ。 (森本智之)

 「先生のことは今でも夢に見るんです」。むぎわらさんはそういって懐かしそうに笑う。優しそうな表情はどこか「のび太」をほうふつとさせる。

 幼い頃ドラえもんを読んで漫画家を志し、十九歳で藤子さんのアシスタントになった。ある時、藤子さんに声をかけられる。「空いた時間は自分の作品を創って構わない。いつでも見てあげます」。寡黙な藤子さんとは別室で、普段は言葉を交わすこともほとんどない。緊張しながら手渡すと、細やかで具体的なアドバイスがびっしりと書き込まれて返ってきた。

 「すごく厳しい言葉だった。でもうれしかったです。本当に」。仕事の合間を縫い、新人にも真剣に向き合う憧れの人の姿に心打たれた。

 順調に経験を積み六年でチーフに。一方の藤子さんは晩年、病との闘いが続いた。一九九六年夏、翌春公開の映画の原作として「のび太のねじ巻き都市(シティー)冒険記」の連載が始まった。

 キャラクターの顔は必ず自分でペンを入れていた藤子さんだったが、このときは原稿の途中から鉛筆の下書きだけになり、むぎわらさんが初めてペン入れを任される。苦労して原稿を仕上げて届けると、藤子さんから「藤子プロスタッフの皆さんへ」と題したメモが届く。事細かな注文の後で末尾にはこうあった。

 「『藤子プロ作品は、藤子本人が書かなくなってからグッと質が上(あが)った』と言われたら嬉(うれ)しいのですが」(原文ママ)。今にすれば遺言めいて聞こえる言葉を残し、藤子さんは間もなく亡くなった。「ドラえもん物語」には、藤子さん直筆のそのメモも掲載されている。

 作品は未完のまま絶筆になると覚悟したが、葬儀から一週間後、遺族から連絡が入る。むぎわらさんが藤子さん宅を訪ねると、書斎の机の上に書きかけの下絵があり、傍らには無数のアイデアが書き込まれたノートもあった。藤子さんは意識がなくなる直前までペンを握っていた、と知った。

 「鳥肌が立った」。残された資料を基に作品は多くのスタッフの手で完成し、映画も無事に公開された。ドラえもんの新作映画はその後も年一本のペースで作られ続けている。

 むぎわらさんは二〇〇〇年に独立。ドラえもん世界を舞台にした野球漫画「ドラベース」シリーズなどのヒット作を生み出してきた。藤子さんが亡くなってから二十年余。「あの時いただいたアドバイスが、いま漫画を描いている時も、やっぱり頭に浮かびます」と話す。 

◆15日まで川崎で展覧会

 川崎市多摩区の藤子・F・不二雄ミュージアムで「ドラえもん×コロコロコミック40周年展」が開かれている。大長編を中心に原画を展示し歴史を振り返る。15日まで。チケットは全国のローソンで販売(日時指定の予約制)。

◆ドラえもん1970年スタート 児童漫画、こだわり続け

 国民的漫画「ドラえもん」は1970年、小学館の「よいこ」「小学一年生」など学年誌6誌で連載が始まった。藤子さんは読者の年齢に応じて作品をそれぞれ描き分け、幼児向けは絵本のようにゆっくりしたストーリーで展開させた。

 74年、藤子さんの自選集として単行本(てんとう虫コミックス)の刊行が始まると人気に。それを背景に、単行本未収録の話を再掲するため77年、コロコロコミックが創刊された。

 創刊号はドラえもんが200ページ。他にも「ドラえもん百科」などが満載で、後に編集長を務めた小学館社長室顧問の黒川和彦さん(65)は「藤子マガジンだった」と証言する。

 80年に映画化が決まると、藤子さんは過去の作品から「のび太の恐竜」を選んで長編化、原作漫画としてコロコロに描き下ろした。この「大長編」シリーズをコロコロで連載し、その後に映画公開する流れが定着した。

 藤子さんのすごさは一線の児童漫画家であり続けたことだ。どんな大作家でも年齢が上がるにつれ、子どもの心をつかむ創作は難しくなる。手塚治虫さんや石ノ森章太郎さんでも徐々に大人向け漫画に軸足を移している。だが、藤子さんは優れた大人向けのSF漫画も残す一方で、児童漫画にこだわり続けた。

 黒川さんは「ドラえもんは大人が読んでも面白い。子どもの目線で描いているのにちっとも幼稚じゃない」と舌を巻く。

 藤子さんは晩年こんな言葉を残している。「僕はまだ描き尽くしたとは思っていない。徹底的にあと一滴もしぼれないというところまでしぼって描いてみたい」(JR東日本「トランヴェール」96年1月号)。最後の最後まで創作に意欲を燃やした数少ない漫画家でもあった。

 ファミコン、ミニ四駆、ポケモン、妖怪ウォッチ…。玩具メーカーなどとメディアミックスを仕掛け、子どもの世界でいくつものブームを生み出してきたコロコロ。子ども文化をリードする総合誌のイメージが強いが、その遺志が込められたドラえもんは「今も雑誌の精神的支柱」という。

◆藤子・F・不二雄さんとドラえもんの歩み

1933年 富山県高岡市に生まれる。本名・藤本弘

 44年 小学5年で、転校生の安孫子素雄(藤子不二雄(A))さんと出会う

 51年 2人の合作による「天使の玉ちゃん」で高校生デビュー

 54年 上京し、豊島区のアパート「トキワ荘」に入居。石ノ森章太郎、赤塚不二夫さんらと切磋琢磨(せっさたくま)する

 70年 小学館の学年誌で「ドラえもん」連載開始

 74年 単行本「てんとう虫コミックス」刊行

 77年 コロコロコミック創刊

 80年 大長編「のび太の恐竜」をコロコロコミックに連載。直後に映画第1作として公開される

 87年 藤子不二雄のコンビ解消

 96年 大長編第17作「のび太のねじ巻き都市(シティー)冒険記」の執筆中に他界、享年62

2018年 映画「のび太の宝島」(3月3日公開)

 

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