東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 記者たちの戦後経済秘史 > 記者たちの戦後経済秘史記事一覧 > 記事

ここから本文

【記者たちの戦後経済秘史】

未来に自信、太陽光 伊藤弘喜(東京経済部)

石油ショック後、アモルファス太陽電池の開発に取り組む桑野幸徳氏=大阪府枚方市の三洋電機・中央研究所で(本人提供)

写真

再生可能エネルギーの取材では、国が戦後、原子力に費やしてきた予算の総額を知りたくて、経産省や文科省などに問い合わせたが、どこも「分からない」との回答。原子力を国策として推進しながら、歴史的な全体像をきちんと把握していないことにあきれた。

国策として原子力が推進されていた「事実」は国家予算などのデータを見れば分かった。では、その雰囲気はどうだったのか。原子力以外のエネルギーに携わる人たちは、何を感じていたのか。技術者で元三洋電機社長の桑野幸徳氏や、評論家の堺屋太一氏に取材する際、特に気に留めていた点だ。

「原子力ムラ」との関係では苦労も多かったのでは、と何度も水を向ける記者をかわしながら、桑野氏は「五十年後、百年後にはこっちが勝つことを信じていたから」と繰り返した。時代の趨勢に抗い、太陽光の発展に尽力してきた企業家の強さを垣間見た。ちなみにソフトバンクグループが二〇一六年三月に中国と韓国、ロシアを送電網でつなぎ、再生可能エネルギーを融通しあう構想を発表したが、桑野氏はすでに一九八〇年代後半、太陽光を軸に大陸間でエネルギーを融通しあう同様の構想を発表していた。

城下町自治体の取材では、なぜ栃木県矢板市に「早川町」が生まれたのかについては結局、細部まで突き止めることはできなかった。当時を知る関係者はほとんど亡くなっている。矢板市に残る記録は、市が一九六八年三月に出した、早川町を含む市内の複数の町の名称変更をうたう告示ぐらい。最近でも行政の議事録の不備などが話題になるが、公文書管理の大切さをあらためて実感した。

硫酸など化学薬品やセメントの製造が活発で、「硫酸町」「セメント町」などの町名がある山口県山陽小野田市では、環境規制が緩かった時代ならではの話が印象に残った。

昭和四十年代ごろまで硫酸町には硫酸の製造過程で発生する硫黄のような臭いが充満し、町外の人は町を通過する時、息を止めたそうだ。水も臭ったため、よそから嫁いできた硫酸町自治会長の奥さんは新婚当時、「炊き立てのご飯ものどが通らなかった」という。工場から出るガスの影響なのか、外に干した洗濯物は黄ばんだ。一方、セメント町ではセメント工場から出る粉じんで洗濯物や屋根が白くなった。

どちらの地域でも工場への不満を表立って言う者はなく、むしろ雇用創出が歓迎されたという。ただ、それは公害が社会問題化する前の時代だ。「ちゃんと調べれば健康被害はあったはず」と耳打ちする住民もいた。

 

この記事を印刷する

PR情報



ピックアップ
Recommended by