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【記者たちの戦後経済秘史】

私の「365歩」 水前寺清子さん

録音時のエピソードを語る歌手の水前寺清子さん=東京都港区で

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 一九六八(昭和四十三)年に生まれたヒット曲「三百六十五歩のマーチ」(作詞・星野哲朗、作曲・米山正夫)。マイクを握った水前寺清子さん(70)が最も好きな歌の言葉は一番や三番より、ステージで歌う機会が少ない二番の冒頭にある。

 人にとって「幸せ」の扉は狭い。だからしゃがんで通るしかないんだと呼び掛ける。

 歌が世に出た時は、未曽有の高度経済成長期。所得に大きな格差はなく「一億総中流社会」とも呼ばれた。うまくいかずに苦労しても、今日より明日の方が良くなると、みんなが信じていた。

 「あのころは、多くの人が『自分はまだ負けている』と思って頑張っていたんじゃないかな。幸せは、ぽんと来るもんじゃない。狭い扉を抜けるんだと」

 「三百六十五歩」は、くじけそうな心を支える“人生の応援歌”として歌い継がれてきたが、水前寺さん本人は実は最初、この曲を歌うことに抵抗感があったという。

六八年、録音スタジオで三百六十五歩のマーチを初めて聴いた水前寺さんは「運動会の歌?」と尋ねた。まさか自分の歌とは思わない。デビューから四年。ヒット連発の「チータ」といえば、着流しに演歌、と決まっていた。

 マーチと『ワン・ツー』の英語の歌詞は、これまでの“成功の方程式”とは全く逆。歌いたくはなかった。「冗談じゃない。わざとイメージに合わない曲を歌わせて私を辞めさせる気だ」。疑心暗鬼になった。

 それでも「一回だけ」と録音を迫られ、抵抗のつもりで演歌調にこぶしをきかせた。レコードジャケットの写真は、おもちゃの兵隊のコスチューム。「私の中では最悪でした」

 しかし発売すると、百万枚を超えるミリオンセラーになり、日本レコード大賞大衆賞を受賞する。「元気が出た」「勇気づけられた」「明日はいいことがあると思えます」―。分刻みで仕事をこなす日々にファンから届く熱い手紙。歌への気持ちが大きく変わった。「みんなに歌われる、素晴らしい歌だったんだ」

 六〇年代は高度経済成長の真っただ中。「国民生活に関する世論調査」で中流と答える人が九割近くに達した。経済成長率は年平均で10・4%。バブル経済最盛期の八八年(7・1%)を上回り、皆が同じように明るい未来を夢見た。

 「景気が良くて、レコードも売れて。日本が自信に満ちた時代だった」と水前寺さんが所属する日本クラウンの創業メンバーで元ディレクターの長田幸治さん(83)=東京都文京区=は振り返る。「耐え忍ぶような演歌より、三百六十五歩の歌詞が世の中に合った」

 当時の岐阜市の歓楽街・柳ケ瀬。アコーディオンの流しを始めて間もなかった中井初男さん(80)=岐阜市=は、県内外から集まる羽振りのいい繊維業者の前で何度もこの歌を歌い、喉をからしたのを覚えている。「みんなで歌えるから締めの曲に好まれた」。応援歌だから、場が盛り上がった。

歌詞を書き留めた辻朋子さんの手帳=名古屋市中村区で

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 歌が発売された六八年に生まれた起業コンサルタント辻朋子さん(47)=滋賀県近江八幡市=は今年も、スケジュール手帳に歌詞を書き写した。もう十年以上続けている。「立ち止まった時に見るんです。いいときは鼓舞してくれるし、つらいときは励ましてくれる」

 両親が商売人。幼いころから会社経営を夢見た。しかし、大学受験に二度失敗。一度はプロを目指したゴルフの道も挫折する。自分を支えてくれた夫の他界と再婚。つらい時に口ずさんだのが、この歌だった。

 税理士事務所を経て八年前に会社を興し、各地でセミナーを開く。広い会場に聴講者が一人だけだった時もある。帰り道に歌詞を見ると「堂々と生きなさい」と励まされた。

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 「一億総中流社会」と呼ばれた時代から、経済格差は徐々に広がっている。三百六十五歩のマーチが世に出た直後の七〇年に一万三百円だった千人以上の企業と百人未満の月額賃金の差は、二〇一四年、八倍強の八万四千八百円まで拡大した。「皆が同じ」時代とは呼べなくなった。それでも、三百六十五歩のマーチに励まされている人々がいる。水前寺さんは言う。

 「最初は歌いたくなかった曲が、今では誇りです」

 

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