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【記者たちの戦後経済秘史】

行動、挑戦のサイクル回せ スズキ会長 鈴木修氏(86)

スズキ会長 鈴木修氏

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 貧乏のどん底だったよ。戦後の初めは。そこから、衣食住を満たせるようになって。車がほしい、というところまできた。それで、庶民の手に届いたのが軽自動車だった。スズキが国内初の量産軽自動車「スズライト」を発売したのが一九五五(昭和三十)年だ。

 六〇年代の高度成長で軽の販売は一気に伸びた。七〇年には百二十五万台と、新車全体の約三割に。ただ、そのころから時代は「大きいことは良いことだ」に変わって、老いも若きも「軽より大きな車を」となった。

 七三年に財界のお歴々が集まる「産業計画懇談会」があり、「耐用年数が短く、安全性にも問題がある軽はもういらない」と政府に提言した。追い打ちをかけるように大気汚染が問題になり、七五年に厳しい排ガス規制が導入された。軽も大きい車と同じ対応が必要となり、軽のコストが上がった。この年、軽の販売は全体の一割まで落ちた。

 しかも、うちは排ガス規制に対応したエンジンの開発にも失敗して。もう悲壮感を通り越し、どうにもならないと思ったね。にっちもさっちもいかずトヨタ自動車に助けてもらってエンジンの供給を受けた。

 七七年には、二代目社長の義父が亡くなり、創業者の祖父も三代目社長の叔父も病で倒れた。創業家で残ったのが私だけ。「こりゃ、やらなきゃなるまい」と。七八年に社長になって、開発中の「アルト」を画期的な商品にするため、発売を一年延ばした。

 「製造コストを三十五万円にできないか」って技術陣に聞いたら「無理」と口をそろえる。頭にきて「エンジン取ったらどうだ」って言ったら、やっと「修さんは真剣だ」と伝わった。

 荷室を広げて「商用車」にして物品税がかからないようにし、後部座席の背板はベニヤ板。それで当時六十万円以上だった軽を全国統一の四十七万円にした。便利で安いアルトは、セカンドカーの需要もつかみ、月三千五百台の当初見込みが一万台を突破。これで軽の市場は息を吹き返した。

 軽は大きさ一ミリ、排気量一ccでも超えたら小型車になる。限られた枠に創意工夫を詰め込む軽は、俳句にも似た芸術品だ。その技術が今、アジアの国を走っている。インドはスズキが自動車市場の45%を占め、その半数が軽だ。狭い道の多い日本では生活の足となり、今や、新車販売の約四割を占めるに至った。

 振り返ると、僕の場合は、預かった会社を次へ受け渡す義務感があって。社業の発展に、がむしゃらに努力してきた。そしたら運とツキが向いてきた。どんな経営者も同じで、一生懸命に行動、挑戦するサイクルを回すのが大切と思うね。

 <すずき・おさむ> 岐阜県下呂町(現下呂市)出身。中央大卒業後、1958年に鈴木自動車工業(現スズキ)に入社。2代目社長鈴木俊三氏の娘婿に。取締役、常務、専務を歴任して78年に社長、2000年に会長に就任。08年に再び社長兼務となり、15年6月から現職。

 

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