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【1964年からの手紙】

マラソン代表・君原健二さん 自国開催の重圧に負けた

君原は1964年東京五輪で使用したユニホームとシューズを大切に保管している=北九州市の自宅で

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 2020年東京五輪の開幕まで3年3カ月余り。自国で迎える五輪の独特で異様な雰囲気は、経験した選手でしか伝えられない。1964年東京五輪のオリンピアンが次の世代に思いをつなぐ新企画「1964年からの手紙」。第1回はマラソン代表の君原健二(76)。半世紀以上前の記憶をたぐり、ずしりとのしかかった重圧を語る。 (森合正範)

 <1962年12月、初マラソンで当時の日本記録を更新する2時間18分1秒をマークし、東京五輪のプレ大会では2位。代表選考会は優勝を飾り、日本代表に選ばれた。当時の心情をとつとつと語りだした>

 現在と比べ、当時は国の代表意識が強かった。とはいえ私の心は未熟でした。日本代表としての大きな責任に押しつぶされていました。

 戦後19年、日本中が五輪を待ち望み、沸きに沸いている。地元開催、初の五輪代表、国民の皆さまの期待…。夜は眠れず、23歳の私には耐えられない。五輪が終わったら辞めることだけを考えていました。代表決定から本番までの半年間、あのつらい経験は忘れられません。

 <五輪が近づくにつれ、周囲の期待は高まっていく。「日本のエースは君原」「メダル候補」と過熱した>

 本番2カ月前、1万メートルの記録会で2位になり、3日後にマラソンで優勝。その4日後には1万メートルで日本記録を出しました。東京五輪の年は本番までの10カ月で8160キロ走り、体力面では間違いなく競技生活のピークでした。

 ただし、競技とは心技体の総合力です。異常な緊張感に包まれ、調子が良ければいつ不調になるかと不安になり、調子が悪ければ永遠に続くのではと思い悩む。国民の皆さまから「頑張ってください」という応援が無性に腹立たしく、お守りや千羽鶴をもらっては処分に困る日々でした。

 私はアマチュア精神を大切にしていました。代表決定から月に約2週間は仕事を休んで合宿です。これでは半分プロのようなもの。他の人は仕事をしながら練習している。そんな状況で勝っても価値がないと考えていました。

 <五輪が開幕した。開会式に参加し、心が躍る。「世紀の祭典を見逃すのは残念」と思わぬ行動に出た>

 選手村は騒がしくなり、陸上の最終日に出場するマラソン代表は神奈川の逗子で最終調整となりました。ですが、私は毎日のように抜け出し、会場に駆けつけ、バレーボールを見たりしていました。円谷(幸吉)さんは逗子を離れたことはないでしょう。私は現実から逃げる意気地なしだったのです。

 <10月21日の本番。「冷静に」と自らに言い聞かせながら走った。2時間19分49秒の8位でゴール。円谷は残り200メートルで逆転されて銅メダル。2人は意識が遠のき、控室へ運ばれる>

 薄目を開けると、隣には円谷さんがベッドに横たわっていました。彼は疲れ果て、悲しげな表情でした。私は円谷さんを追い抜いた記憶がない。途中棄権したものだと早合点し、ずっと黙っていました。いま考えるとゴール間近で追い抜かれたことの無念さが悲しげな表情にさせていたのでしょう。

 しかし結果でいえば、私は自己記録に3分半及ばず、円谷さんは自己記録を2分近く更新した。スポーツの勝者とは順位や記録ではなく、力を100パーセント発揮できたかどうかだと思います。円谷さんは出し切り、私は発揮できなかった。力はあったのですが、心が弱かった証しです。

 <故郷に帰り、会社に退部届を提出。しかしコーチに説得され、1年後に復帰した。メキシコ五輪で銀メダル、ミュンヘン五輪は5位だった>

 メキシコもミュンヘンも代表3人の中で、練習では私が一番遅かった。期待されていなかったでしょう。東京五輪の経験もあり、リラックスして走れたことが好成績につながりました。要するに心の持ち方次第ということです。

 一番の思い出は銀メダルのメキシコではなく、やはり東京になります。自慢の結果ではありませんが、あの素晴らしい五輪に参加できたことは生涯の誇り。それだけ地元での五輪は尊いものです。

 <東京に再び五輪がやってくる。君原は「とても楽しみ」と言う。一方で、選手たちの心を思いやる>

 地元開催はものすごい重圧がかかる。でも、それも受け止め方次第。今の選手は「楽しむ」という言葉を使います。私や円谷さんの時には絶対にできなかった。日々苦しいことの連続でした。私には考えられませんが、それでいいのではないでしょうか。

 重圧を感じない選手なんて一人もいないでしょう。私のように押しつぶされてほしくない。どう重圧と戦うか。100パーセントの力を出し切れるように、残り期間でコントロールの方法と心を鍛えてください。 (敬称略)

<きみはら・けんじ> 1941年3月20日生まれの76歳。北九州市出身。59年、八幡製鉄(現・新日鉄住金)入社。現役時代は35回のマラソンで優勝13回、2位8回、3位5回。66年のボストンマラソンで優勝し、昨年の大会に「50年前の優勝者」として招待され完走した。

<1964年東京五輪のマラソン> アベベ・ビキラ(エチオピア)が当時の世界記録2時間12分11秒で2大会連続金メダルを獲得した。円谷は2番手で国立競技場へ。残り200メートルほどでベイジル・ヒートリー(英国)に抜かれ3位。陸上競技で唯一のメダルとなり、メインスタジアムの国立競技場に日の丸が揚がった。君原は8位、寺沢徹は15位だった。

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