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【1964年からの手紙】

五輪経験 社会に伝えて 競泳男子代表・後藤忠治さん

東京五輪の競泳男子400メートルリレーで4位入賞した記念の盾を前に、当時について語る後藤忠治さん=東京都中央区のセントラルスポーツで

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 1964年東京五輪の競泳男子自由形代表の後藤忠治さん(75)は、五輪で敗れた屈辱をバネに企業型クラブ「セントラルスポーツ」を設立し、多くの五輪選手を輩出した。現在会長を務める後藤さんは、経営者の視点から2020年大会に出場する選手に求めることがある。 (原田遼)

 <64年10月11日、男子100メートル自由形のスタート台に立ったが、勝つイメージは全く湧かなかった>

 7月の代表選考会で自分が持っていた日本記録の55秒2を更新できず、納得できなかった。だが当時は日本代表でも技術的な指導はなく、戦後のスター古橋広之進さんの理念である「魚になるまで泳げ」だけがノウハウだった。泳ぎのどこに問題があるのか自分で分からないまま、五輪を迎えてしまっていた。

 <予選こそ通過したが、準決勝は55秒6の全体13位で敗退した>

 実力を出せないまま終わり、何てだらしないのかと思った。大会1週間前に会場に入ってから、普段はない万国旗やカーペットなどを見て、ずっと外国にいるような感じだった。実は、慣れない革靴で移動したせいで開会式前日に階段で滑り、左足を痛めていた。五輪がどんなところか教えてくれるコーチや先輩もおらず、雰囲気にのまれてしまっていた。

五輪出場時の後藤忠治さん=本人提供

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 <第2泳者を務めた400メートルリレーも4位。日本勢のメダルは他選手が組んだ男子800メートルリレーの銅のみと、惨敗に終わった>

 終わった時に感じたのは、指導の大切さだった。あとから聞いたら米国などは既に心拍数を測ったり、流体力学に応じた泳ぎを研究したりと科学的トレーニングを行っていた。実際、海外選手は体つきも今の選手と同じくらいがっちりしていて、私たちより一回り大きかった。

 <22歳で引退。工機メーカーに勤めていた時に転機が訪れる>

 東京五輪のヘッドコーチだった村上勝芳さんが五輪会場のプールに「代々木スイミングクラブ」をつくったと聞き、見学に行った。最初はボランティアで子どもに教えていたが、希望者が増えて収拾がつかなくなり、月謝をもらうようになったそうだ。

 東京五輪での責任を背負って活動している姿を見て、自分もやらなければと思った。当時は村上さんのように公営プールで個人が教えるスイミングクラブができ始めていたけれど、良い選手を発掘するためには自前のプールでより多くの子どもたちを集めて育てないといけないと考えた。

 <70年にセントラルスポーツ社を共同で設立。体操クラブとの併設だったが、水泳界では日本で初めて企業化したクラブだった>

 都内で体操教室を始めていた東京五輪代表の小野喬さん、清子さん夫妻、遠藤幸雄さんと手を組んだ。最初は私立高校のプールを使わせてもらった。自前のプールの確保やコーチの整備など365日仕事をしていたけれど、つらくはなかった。何とか成功させようという思いだった。

 <経営が軌道に乗った82年、社内にスポーツ研究所を設置。最先端の生理学や流体力学を現場に導入した>

 88年ソウル五輪では、クラブ出身者の鈴木大地(現スポーツ庁長官)が金メダルに輝いた。自分のなしえなかった夢を後輩がかなえてくれた。会場から宿舎に戻って祝勝会をして、気づいたら裸で寝ていた。喜びすぎたのか、その後5日間声が出なかった。

 <同社を模範とした企業型クラブが広がり、トップ選手を生む土台が築かれた。昨年のリオデジャネイロ五輪で日本競泳陣はメダル7個を獲得。20年東京五輪でも期待される>

 運のいい時代に生まれたから、地元開催の五輪で日の丸を背負える。その経験を社会に還元することは選手の義務だ。子どもに教える、ボランティアに参加する。どんな形でもいい。そして現役の時の結果やタイムを、次の世界に出て行く時に大切にしてほしい。僕は東京五輪でメダルを取っていたら、絶対にこの仕事はやっていない。(この企画は随時掲載します)

◆1964年東京五輪の日本競泳陣

 メダルは60年ローマ大会の5から1に減らした。高石勝男水泳代表総監督は大会後、「米国は約150万人の少年選手を抱えている。日本は小中学校でプールを持つのは12〜13%。プールを増設し、国民皆泳を徹底しなければ、世界の競争に立ち向かえない」と日本体協の報告書で記している。

 その後、70年代にイトマン、JSSなど企業型クラブが誕生し、育成の場が全国に広がった。先駆けとなったセントラルスポーツは鈴木大地のほか、2004年アテネ大会男子100メートル背泳ぎ銅、同400メートルメドレーリレー銅の森田智己ら14人が競泳の五輪代表に。体操でもアテネ大会男子団体金などの冨田洋之、鹿島丈博らが育った。

<ごとう・ただはる> 日大で本格的に競泳を始め、大丸に入社した1964年の東京五輪で男子100メートル自由形準決勝敗退、同400メートルリレー4位。東京工機を経て69年にセントラルスポーツの創業メンバーとなり、70年に株式会社化。77年に社長に就任し、2014年から現職。東京都葛飾区出身。

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