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【1964年からの手紙】

<番外編>あす没後50年 マラソン代表・円谷幸吉さん

東京五輪の表彰式の写真を背に、当時の思い出を語る円谷喜久造さん=福島県須賀川市で

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 1964年東京五輪男子マラソン銅メダルの円谷幸吉さんが自ら命を絶ってから9日で50年になる。日本陸上界に戦後初のメダルをもたらし、一度も後ろを振り向かずに走り続けた愚直な姿は、今なお人々の胸に刻まれている。陸上競技へ導いた4番目の兄の喜久造さん(85)が、64年の歓喜とその後の悲劇を語る。 (森合正範)

 <マラソン本番の10月21日。喜久造さんは国立競技場の観客席にいた。円谷は競技場に2番手で入ってきた。体は揺れ、あごは上がり、苦しそうだ。後ろからヒートリー(英国)が迫ってくる>

 競技場に入ってきた時は疲れた顔でね。私は「幸吉、頑張れ! ゴールまで倒れるな!」と叫んでました。

 後ろの席の人が「抜かれるぞ」と言ったら、近くにいた新聞記者が「2位でも3位でもそんなのどうでもええ。日の丸が揚がる。日の丸が揚がるんだ」と大声で話しとった。私の気持ちも全く同じでしたね。

 レース後は「頑張ったな」と言うのが普通だけど、会っても何も言えなかった。幸吉の顔を見ただけで十分。感動で言葉が出ませんでした。

 <円谷はヒートリーが後ろから来ても、一度も振り返らなかった。それは父・幸七さんの教えだった>

 幸吉が小学校4年の時の運動会でした。先頭を走る人がしょっちゅう後ろを振り返っていたもんだから、父が食事の時に「後ろを見るな、あんなみっともないことやるもんじゃない」と言ったんです。

 父が言いたかったことは「後ろを振り返るくらいなら、勝っても負けても最後まで精いっぱい走れ」ということ。幸吉は後ろを振り返る分、前を向いて一生懸命走ったわけだから、あれでよかったのではないですか。

東京五輪、マラソンのゴールに向けて力走する円谷幸吉。右は猛烈な追い上げを見せるヒートリー(英国)=1964年10月21日、国立競技場で

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 幸吉は素直で実行力がある。おやじに「陸上をやる」と言った時に「やるのはいいけど、中途半端にやるな」と言われてね。力を出し切る走りや競技内容は性格がにじみ出ていたんじゃないですかね。

 <東京五輪後、「さらなるメダルを」とメキシコ五輪を目指す。だが、寝食を共にしてきた畠野洋夫コーチは円谷の方針をめぐり、所属の上司と衝突。北海道へ左遷された>

 五輪後はあまりに期待されちゃって、必死に応えようとしていた。前に出るのはいいけど(競技から)下がるのは難しい。走るのは上司の命令です。自分で決められない時代でしたから。

 畠野さんとのような支え合う関係がなくなって、話し相手がいない。寂しかったんです。孤独だったんです。それが致命傷でした。力も落ちているし、アキレス腱(けん)と腰も痛めていた。上に立つ人が「やれ」と言って、機械ならできるけど、生身の人間でしょ。酷な話ですよ。

 幸吉は決して速い選手ではないんです。練習して努力を重ねて記録を更新していった。遅い選手でも順序を追えばこうなれると後輩に伝えられたと思う。もう選手として続けるべきではなかった。指導者になってほしかった。それが残念でならない。

 <1968年1月9日。27歳の円谷は遺書を残し、自ら命を絶った。故障と重圧、孤独に苦しんでいた>

 遺書にあった「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」というあの言葉がね。マラソンは楽な仕事じゃない。それは誰もが分かっています。相当つらかったんだろうと…。もう悲しくて。遺書の上にある染みは(5番目の兄の)幸造の涙です。あれを読んで、こぼれ落ちたんです。

 こういうことを二度と起こしてはならない。幸吉にはもう遅いし、言っても仕方ないんだけど、話をしてほしかった。正月は実家に帰ってきたんです。(故郷・須賀川の風習である)麦を混ぜた「三日とろろ」をすすっていた。でも、もう形もなくなっちゃって、話もできない。ただ手を合わせるだけ。これでは意味がないよ。やってきたことを生かせるような、前向きな話し合いをしたかったな。

 <再び東京に五輪がやってくる。開催が決まり、すぐに墓前に報告したという>

 「また日本に五輪がくるよ。頑張ってくれる人がいればいいな」と話してきました。開催国ですからね、何か一つ花を咲かせてほしい。

 残り2年半。選手は精いっぱい頑張って、最高のコンディションで臨んでほしい。指導者は、選手の支えになって、一番身近にいる者として見てくれればね。選手とコーチの一体感というのかな。

 また国立競技場に日の丸が揚がればいいですね。私にはね、何年たってもあの時の、幸吉の感動が忘れられないんです。

円谷が残した遺書の一部(円谷幸吉メモリアルホールより)。上部に付着した染みは5番目の兄・幸造さんの涙だという。

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父上様 母上様 三日とろゝ美味(おい)しう

ございました。干し柿 もちも美味しうござい

ました。

敏雄兄 姉上様 おすし美味しうござい

ました。

父上様 母上様 幸吉は、もうすっかり

疲れ切ってしまって走れません。

  何卒(なにとぞ) お許し下さい。

◆周囲の期待重圧に

 円谷は1940年5月、福島県須賀川町(現須賀川市)で7人きょうだいの六男として生まれた。四男の喜久造さんに影響され、陸上を始める。

 陸上自衛隊に入隊後、東京五輪を目標に発足した自衛隊体育学校の陸上班に選ばれた。東京五輪では10月14日の1万メートルで6位入賞。1週間後の最終種目となるマラソンで銅メダル。2種目で好走し、身長163センチ、体重53.5キロの小柄なランナーが不振の日本陸上界を救った。4年後のメキシコ五輪の活躍を誓い、周囲の期待が重しとなっていく。

 交際女性がいたが、体育学校長の反対で婚約は破談に。結婚を勧めた畠野コーチは北海道へ左遷された。円谷は競技に専念し、メキシコ五輪を目指すことが求められた。

 68年1月、自衛隊体育学校幹部宿舎の自室で、自ら右頸(けい)動脈を切り、死去。27歳だった。

(写真左)円谷幸吉(左)と畠野洋夫コーチ(右)の2人は寝食を共にし、信頼関係で結ばれていた(写真右)東京五輪で日本陸上界が唯一獲得した円谷の銅メダル

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<1964年東京五輪のマラソン> アベベ(エチオピア)が当時の世界記録2時間12分11秒でローマ五輪に続き金メダルを獲得した。円谷は少しずつ順位を上げて2番手で国立競技場へ。残り200メートルほどでヒートリーに抜かれ3位。陸上競技で唯一のメダルとなり、メインスタジアムの国立競技場に日の丸が揚がった。

 

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