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【1964年からの手紙】

「東洋の魔女」に反骨心 男子バレーボール代表・中野尚弘さん

1964年東京五輪のルーマニア戦でスパイクを放つ中野尚弘さん(右)

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 1964年東京五輪のオリンピアンが次の世代に思いをつなぐ「1964年からの手紙」。バレーボールの男子日本代表は、銅メダルの健闘にもかかわらず「東洋の魔女」の陰に隠れた。金メダルの女子ばかりが人気を集め、主力の一人だった中野(旧姓・池田)尚弘さん(78)は「何くそという思いはあった」と当時を振り返る。その反骨心が68年メキシコ五輪の銀メダル、そして72年ミュンヘン五輪の金メダルにつながっていく。 (佐藤航)

 <当時は日本中が「東洋の魔女」のとりこだった>

 まさに五輪全体の主役という感じでしたよ。五輪3年前の欧州遠征も女子は連戦連勝。負け続けた男子は全く注目されなかったんです。日本バレーボール協会が開いた五輪の祝勝会にも男子は呼ばれず、コーチの松平康隆さんが「堂々と銅メダルを取ったじゃないか」とものすごく怒ってね。協会の不手際だったんでしょうが、伝えるのを忘れるくらい関心は薄かった。

 でも、銅メダルを取ったのは本当に奇跡に近いと思います。当時は体格で勝るソ連や東欧勢が圧倒的に強かった。日本は3試合を終えて1勝2敗。誰が考えても厳しい状況だった。そこから6連勝。地の利があったとはいえ、世界最強のソ連にも勝った。女子の「回転レシーブ」のような華々しさはなくても、男子にはチームワークがあったんでしょう。勝つことでリズムに乗っていけたんです。

 <それでも評価されなかったことへの反骨心が、その後の躍進につながった>

東京五輪の銅メダルを手に大会を振り返る中野尚弘さん=長崎市で

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 「見返してやりたい」という思いは、メキシコ、ミュンヘン五輪で監督を務めた松平さんには常にあったんだと思います。私もメキシコは選手兼コーチ、ミュンヘンはコーチとして、一緒に本気で金を狙っていました。

 松平さんは「監督は会社の社長だ」がモットー。社長だから、営業もしないといけない。テレビ局にアピールし、ファンに全日本の練習を公開して、テレビに映る努力を続けた。選手にとってはそれが意欲につながるわけですからね。

 もちろん力がなければテレビ局に見向きもされない。強くなるために智恵を絞ったし、努力をしましたよ。高さとパワーで劣る日本人が勝つには、どうすればいいのか。相手にアタッカーを絞らせない「時間差攻撃」や、ネットに沿って低くトスを上げる「平行トス」。日本独自のコンビネーションバレーを編み出し、守りはレシーブを徹底的に鍛えて。その成果がミュンヘンの金メダルに現れたんです。

 <ミュンヘン五輪以降、男子代表は低迷が続く>

 今の指導者は簡単に考えすぎだと思うね。日本人は身長が低いから、2メートル以上の海外選手には勝てないと。そこから始まってる。小さいなら小さいなりに、やるべきことはある。五輪を制するには、一つでも世界がやっていない武器を磨く必要があります。

 東京で開かれる2020年の五輪は、開催国枠で多くの日本選手が出るでしょう。中には「一つでも勝てるよう頑張る」と言う人がいるかもしれない。でも、一つだけ勝ってどうするんだと。三つ、四つ勝って優勝するくらいの気持ちでなければ、とても入賞すら狙えない。男子バレーボールも、出るからには金メダルを目指す強い気持ちで臨んでほしいですね。

<なかの・なおひろ> 福岡大から八幡製鉄に入社し、身長190センチ近い大型アタッカーとして64年東京五輪に出場した。68年メキシコ五輪は選手兼コーチで銀メダル、72年ミュンヘン五輪はコーチで金メダルに貢献。84年ロサンゼルス五輪で男子の監督を務めた。佐賀県鹿島市出身。

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